ヨブ記4章 2012.7.8

 

4:1 すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。

4:2 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。

正しければ、艱難に会う

 

参照 黙示録3:10

3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

神を信じる人が、ヨブを責めている

「お前に罪があるから困難が来ている」ということを言っている

同じクリスチャン仲間の中傷や批難が、こたえる、しかも聖書から言われてしまう

こういったことで、ダメージを受けたり、ぐらついたりする

2節「だれが黙っておられよう」とは、すなわち、「お前に言うことは言ってやる」ということを言われている

クリスチャンが御言葉に基づいて色々と言う Ex:逮捕や罪状書きのとき

御言葉や信仰的なことを持ってきて言う、クリスチャンが説得しようとする

でも、ぐらついたらダメ

信仰をひっくり返すような、ぐらつかせるような試みがクリスチャンからくるぞ!!ということを言っている

しかし、神が示された正しい歩みから引いてはダメ

ちなみに「エリファズ」は、「私の神は金(信仰)」という意味

信仰に立った歩みの人が正しいクリスチャンを批難する

そのときでも正しくとどまれるか?それが、試練

信仰の友からの揺るがしで正しく信仰を保てるか?

惑わされたクリスチャンにひっくり返されないか?

 

4:3 見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。

4:4 あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。

4:5 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。

4:6 あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。

これも批難

色々と良いことをした、しかし、神に打たれた、あなたはおかしいのでは?ということが起きてくる

 

参照 マタイ27:41-43

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。

27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

 

イエスは神にあって良いことをしているが、今は罰せられているんだ!という批難が来る

前は良いことをしたが、今は悪いから牢屋に入っている

しかし、イエス様が正しい

有罪にした人が曲がっている

これから法律がおかしくなる

法律で有罪に決まったからといって、おたおたしてはいけないことを学ばなければいけない

皆が、そういう決意をしているわけではない

単なる教養を身に付けるために教会に行っている人もいる

でも、堅く御言葉を保つ

法律でひっくり返される人が多い

これもより分けとして用いられる可能性がある

有罪でも主の前に堅く立つのか?

天地が滅んでも御言葉は変わらないので、この世の法律に振り回されないように気をつける

このような類のことがあるということは正しくとらえておく

 

4:7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。

4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。

4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。

4:10 獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。

4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる。

7節ではヨブのことを批難している

「ヨブが滅びている、お前に罪がある」と言っている

8節は、「ヨブが害毒を蒔いているからこういうことになっている」と言っている

サタンの攻撃が来ると、人は表面しか見ない、本質的なことは見ない

そういったことにも耐えられるか?

批難に耐えていけるか?

主の言われたポジションに立つ

 

4:12 一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕えた。

4:13 夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、

4:14 恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。

4:15 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。

4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた。

4:17 人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。

4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。

4:19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、

4:20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。

4:21 彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ。

17節以降は霊の声

霊だからといって、何でも信じてはダメ

怪しい霊もいる、15節では、身の毛のよだつ霊だと書かれている、これは、聖霊ではない

神でない霊もある

霊が言ったからといって、すべて受け入れる必要は無い

正しいことは受け入れるべき

でも、間違えた霊もいる、別の霊からの可能性がある

そういった試しがくる可能性がある

おかしな霊で預言がきたとしても、惑わしに入らずに正しくとどまる

あらゆる形の揺るがしや惑わしがゆるされる

ヨブに似たようなことが来ることを想定して歩む

神のことばに従って批難されたとしても、正しければ、とどまらないとダメ

そういうことがゆるされる

クリスチャンを通しての惑わしが必ず来る、しかし、とどまらないとダメ