ヨブ記22章 2012.11.11

 

22:1 テマン人エリファズが答えて言った。

22:2 人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。

22:3 あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。あなたの道が潔白であっても、それが何の益になろう。

エリファズ:私の神は金(金は信仰に通じる)→信仰を持っている信仰者の立場としてヨブを非難している

艱難時代はサタンが正しいクリスチャンを艱難に会わせる

艱難時代のポイントはサタン

サタンがクリスチャンを憎む

艱難時代のあらゆる災いの張本人はサタン妬みから

Ex:ダビデサウルの関係

狭い道を歩むなら、あらゆるちょっかいが来る、いろいろと来て普通、その裏にはサタンがいる

サタンは私たちの後の世で受ける報いをよく知っている、私たちよりもサタンのほうがよく知っている

すべてのクリスチャンが艱難を通るわけではない、逆にサタンから大歓迎を受ける人もいる、しかしこのことにポイントは無い、後にさばかれる

話は元に戻りますが・・・

エリファズは信仰者の型

艱難時代、信仰を持っているというクリスチャンから非難や攻撃を受ける、そのときに人を見たり、人に期待したりしてはダメ

どこかでリセットして神のことばに立つ

 

22:4 あなたとともに、さばきの座に、はいって行かれ、あなたを責められるのは、あなたが神を恐れているためか。

22:5 いや、それはあなたの悪が大きくて、あなたの不義が果てしないからではないか。

22:6 あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、

22:7 疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。

22:8 土地を持っている有力者のように、そこに住む有名人のように、

22:9 あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。

22:10 それでわながあなたを取り巻き、恐れが、にわかにあなたを脅かす。

エリファズがヨブに関して5節のように「ヨブの不義が果てしないから」と言っている

艱難時代、正しいクリスチャンに対して他のクリスチャンから「不義がある」と思われる

それでも神の前に正しく歩むのか?が問われる、イエスさまもそのような道を歩まれた

イエスさまは罪人で神の前に反抗者だと多くの人たちは熱狂的に心からそう思っていた

私たちもおなじような目に会うことを覚悟しなければいけない

しかし神の憐れみによって助けられたり守られたりする

たとえ人に認められなくても神の前の真実は変わることはない

人からのことで一喜一憂しない、人は変わる

 

22:11 あるいは、やみがあって、あなたは見ることもできず、みなぎる水があなたをおおう。

22:12 神は天の高きにおられるではないか。見よ、星の頂を。それは何と高いことか。

22:13 あなたは言う。「神に何がわかろうか。黒雲を通してさばくことができようか。

22:14 濃い雲が神をおおっているので、神は見ることができない。神は天の回りを歩き回るだけだ。」と。

22:15 あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのか。

ヨブは悪人だと友人からは太鼓判を押されている

ヨブのように信仰がある人であっても人の評価はこんなもの

13:神に分からないからひそかに罪を犯しているという非難

神の前にどうか?が大切、人は変わる、しかし神の扱いは変わらない

神に見放されることはない、神の評価は変わらない 

Ex:ヨブ以上に正しい人はいないという評価

だから人の評価は気にしない、そうでないとひっくり返される

 

22:16 彼らは時がまだ来ないうちに取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。

22:17 彼らは神に向かって言った。「私たちから離れよ。全能者が私たちに何ができようか。」と。

22:18 しかし、神は彼らの家を良い物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。

22:19 正しい者は見て喜び、罪のない者は彼らをあざけって言う。

22:20 「まことに、私たちに立ち向かった者は滅ぼされ、彼らの残した物は火が焼き尽くした。」

22:21 さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。

22:22 神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。

22:23 あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。あなたは自分の天幕から不正を遠ざけ、

22:24 宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け。

22:25 そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。

22:26 そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。

22:27 あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。

21:ヨブは神と争っている、だからろくなことしか起きてこないと言っている

23:ヨブは神の前に罪がある者とされている

ヨブは外見的にもそのように見られても仕方がなかった

神と争っているからこんな目に会っていると言われている、そういう状況の中でどうするのか?

神に見捨てられたために不幸になったという状況がゆるされる

そういう時代がこれから来る、そのときにぐらつくのか?正しく神の前に立つのか?

参照 マルコ13:13

13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます

この御言葉は災いを想定して言われている

神さまから正しいと太鼓判を押されたヨブでさえ悪く言われたのだから、私たちも言われて普通と考える

クリスチャンといっても外見のみで言われてしまう

クリスチャンでも、この世の価値観で生活している人がいることは理解しておく

正しいがゆえに災いがゆるされるという概念もきちんととらえておく

同僚のクリスチャンからそういう目で見られる

しかし神の真理に立つ!!

 

22:28 あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。

22:29 あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。

22:30 神は罪ある者さえ救う。その人はあなたの手のきよいことによって救われる。

29:ヨブは高ぶっていると言っている、これはヨブにとっては思いもかけないこと

私たちもおなじようなことを言われる

人は、えてして浅はか、表面しか見ていない、神が見るようには見ない

キリストでさえ高ぶっているように見られていた

Ex:パリサイ人や律法学者に対して「蛇ども、まむしのすえよ」と言ったこと、両替人の台や鳩を売るものたちの腰掛けを倒したこと

しかしそれらは表面的な見方にしか過ぎない

人前ではなく神の前に傲慢なのか?高ぶっているか?という視点に立つことが大事

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」という御言葉が言うように、たしかに色々な人と争わないほうが良いのも一面事実、しかし、人からの評判を気にしないで神の働きを優先しなければいけないことがあるという面もきちんと見ておく

そうでないと神の働きが止まってしまう

そういうことを言わなければいけない

人間的な標準を優先する人は神の働きはできない

人のことばかり考えていたら奉仕はできない

人に悪く言われても主の言われたことを優先する

場合によっては厳しく言わないと理解しない人がいるのでハッキリ言う

へりくだる、へりくだらないは、神さまが判断すること

人からの評価ではなく神にみとめられることが大事

人からの評価は艱難時代に一変する

人は表面的で浅はか、というのが、ヨブ記を通して一貫して言われていること、そんなことにこだわっていたら艱難時代にずっこける