ヨブ記23章 2012.11.18

 

23:1 ヨブは答えて言った。

23:2 きょうもまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。

23:3 ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。

23:4 私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。

23:5 私は神が答えることばを知り、私に言われることが何であるかを悟りたい。

23:6 神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。

23:7 そこでは正しい人が神と論じ合おう。そうすれば私は、とこしえにさばきを免れる。

23:8 ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。

23:9 左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。

8節に書かれているように、ヨブは神を見いだすことができないと言っている

このことは艱難時代に起きてくるであろう事柄と思われる、ゆえに、ヨブのことを他人事と思ってはいけない

艱難時代に「本当に神は共にいてくださるのだろうか?」という疑問が起きてくる

疑いがいろいろと沸いてくる

それは、イエスさまの生涯にも起きたこと→正しいゆえに苦しみを受けた

この世においては・・・正しいからと言って報われるわけではない

イエスさまは反対に死刑に処せられてしまった

そして、イエスさまは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と神さまに疑問を投げかけておられる、イエスさまでさえ、神に見捨てられたような思いになった

私たちも、こういう疑問や疑いの気持ちが起きてくる

しかし、現実は神さまが見捨てたわけではない

ただし、疑いが起こるということ点はきちんと、とらえておく

 

23:10 しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

神は私を調べられる(KJV):神は私を試みる

艱難時代のひとつの特徴:炉の金のように試される

Ex:シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ

火の炉のような試練で試される、そして金のような信仰になる

神は無責任に試しているわけではない

金は尊い、しかし、火の炉を通す

尊い金を神は求めている

火の炉(火の試練)を通らないと、金(信仰)は出てこない

火の炉と金はセット

試しがないと、クリスチャンの本質がわからないことを神はご存知

イエスさまやパウロも試しの連続だった

本当に永遠のいのちにふさわしいのか?の試しは許される

神の前に、えこひいきは無い

金が出てくるのが尊い

試しを経て、金が出てくるのが尊い

このことは一人一人の生涯にリアルに実現している

しかし、多くのクリスチャンはそのことに気付かずに、楽なほうに走ってしまう、そしてあとになって気付く

試しがあっても、それでもやっていくのか?

試しを経て、ちゃんと「金」と見なされるのが尊い

金として残ることが尊い

試しが必ず来る

試しを経て、なおかつ「金」であることが尊い

これは、お一人一人が通ること

「金」を得るつもりなら、このことは逃れようの無いこと

耐えて、「金」であることを神さまの前に証明していくときに、受けるべきもの(永遠のいのち)を受ける

 

23:11 私の足は神の歩みにつき従い、神の道を守って、それなかった。

23:12 私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口のことばをたくわえた。

ヨブのすばらしいところは、神の歩みにつき従い、神の道を守った

神の歩みにつき従うことが大事→たとえカルトと言われたとしても

たとえば、預言を行うことで批判をするクリスチャンがいる、しかし、預言についてはⅠコリント14章に書かれているように「熱心に求めなさい」とまで言われているので、神の前にはきちんと祈り求めて用いていくのが正しい、そして実際に預言を求めていくときに、預言を通して神の働きを見たり、方向を確認できたりする→神の道をそれないように気をつけ、そのことに努めていく

Ex:ニュースレター、セミナー、出版の働き等

12:私の定め(KJV):私の食物

食物もパン

多くのクリスチャンの問題点:教会にメッセージを聞きにいくときに、都合の良い話しか聞かない、このことは、まさに「私の食物」と言える

ヨブは自分の心を満たすことではなく、神の口から語られることを優先した

自分の都合よりも、神の口が何と語っているか?を優先したい

自分の甘いことばだけを蓄えるのか?それとも神のことばを蓄えるのか?

神は、しもべを求めている

参照 イザヤ書6:8

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

イザヤは名乗りをあげた

自分の都合ではなく、神のことばを優先する→神の前に「しもべの歩み」と見なされる、そして最終的に良い結果をもたらす、のちのち、益になっていく

 

23:13 しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行なわれる。

23:14 神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある。

参照 エペソ人への手紙1:4

1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

この御言葉から、あらゆることについて、神によって定まっていることが理解できる

起きてくることは偶然ではなく、神さまが定めている、このことは聖書で言われている原則のひとつ

たとえば、パウロの歩みも定められていた

私たちも、神によって歩みがみな、定められている

そしてすべてのことは益になる、マイナスのこともプラスになる

マイナス、トラブルは一見、良いようには見えないかも知れない、しかし、益なることを信じる

14:お一人一人の歩みに起きてくることは、良いことも、悪いことも、すべて神の定めによる

このことばを信じていきたい

主に着いていくときに、すべては益になっていく

 

23:15 だから、私は神の前でおびえ、これを思って、神を恐れているのだ。

23:16 神は私の心を弱くし、全能者は私をおびえさせた。

23:17 私はやみによって消されず、彼が、暗黒を私の前からなくされたからだ。

16「神は私の心を弱くし」(KJV):神は私の心をやわらかくする

私たちは神の前に、人によっては鉄の石を持っている

しかし、箴言に書かれているように、私たちは、うなじがやわらかく、フレキシブルに神の言う方向に歩んでいく者

参照 箴言21:1

21:1 王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。

ゆえに、頑なになってはダメ

サウル王は、自分の思いや考えや決断を優先して神の言うことを聞かなかったので神に見捨てられた

心をやわらかくして、主の言われたことをやわらかい心で聞いていくことが大事

神が違う方向を示したら、心をやわらかくして従う

ゆえに、心をやわらかくする

耳しいしもべにならないように気を付ける

色々な方法で神は語るので、その都度、応答していく