ヨブ記30章 2013.1.6

 

30:1 しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。

30:2 彼らの手の力も私に何の役に立とうか。彼らから気力が消えうせた。

30:3 彼らは欠乏とききんでやつれ、荒れ果てた廃墟の暗やみで砂漠をかじる。

1節に「しかし」と書かれているように、このことは29章に対応している

艱難時代の試みのひとつとして「逆転」がある

幸いと災いの両面がある

良い面だけを見るなら片手落ち

苦難を経ても正しく主に仕えていくか?が問われている

狭い門、広い門とはそういうことを言っている

問題があっても、やっていく人にポイントがある

聖書の方針や書き方についてきちんと見ておく

 

30:4 彼らはやぶの中のおかひじきを摘み、えにしだの根を彼らの食物とする。

30:5 彼らは世間から追い出され、人々は盗人を追うように、彼らに大声で叫ぶ。

30:6 彼らは谷の斜面や、土や岩の穴に住み、

30:7 やぶの中でつぶやき、いらくさの下に群がる。

30:8 彼らはしれ者の子たち、つまらぬ者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。

30:9 それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。

30:10 彼らは私を忌みきらって、私から遠ざかり、私の顔に情け容赦もなくつばきを吐きかける。

世の中の低い人たちからもあざけられたりする、それでも従っていくのか?

つばきをかけられるのは、主も経験したこと

参照 マタイ26:67

26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、

ヨブ記は、「イエス・キリストの苦難を預言する書」とも言える

自分たちの感情を揺るがされるようなことも許される、それが艱難時代、それでも従っていくのか?

信仰の模範であり完成者であるイエスをどこまでも見習う

奉仕や歩みはその人の忠実さにかかっている

 

30:11 神が私の綱を解いて、私を悩まされたので、彼らも手綱を私の前に投げ捨てた。

30:12 この悪童どもは、私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に向かって滅びの道を築いた。

30:13 彼らは私の通り道をこわし、私の滅びを推し進める。だれも彼らを押し止める者はいない。

30:14 彼らは、広い破れ口からはいって来るように、あらしの中を押し寄せて来る。

30:15 恐怖が私にふりかかり、私の威厳を、あの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った。

群衆の評価は一変に変わる

イエスさまも大評判だったのに、いきなりカルト・犯罪者扱い

イエスに対して、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」と熱狂的に叫んでいた群衆は、それから一週間もしないうちに豹変し、今度は「十字架につけろ!」と言った

ゆえにこの世で良い評判を受けたとしても、それは永続的なものではない、万一受けたとしても、一時的と考える、もし、それにとどまるなら、罠に入る、神がそういうものを取り去るということがゆるされる

「反映は雨雲のようなもの」と書かれているように、悪く思われるのが普通

自分の去っていく栄光に執着しないこと

イエスさまもそうだったように、生まれていくときと同様、去っていくときも裸で去る、名声とかも含めて、みな取られる、こういったことにこだわってはダメ

より分けられて、残っていく人に御心がある

 

30:16 今、私は心を自分に注ぐ。悩みの日に私は捕えられた。

30:17 夜は私の骨を私からえぐりとり、私をむしばむものは、休まない。

30:18 それは大きな力で、私の着物に姿を変え、まるで長服のように私に巻きついている。

30:19 神は私を泥の中に投げ込み、私はちりや灰のようになった。

30:20 私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。

30:21 あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます。

30:22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私をきりもみにされます。

30:23 私は知っています、あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家に帰らせることを。

20:神さまが無慈悲になったと感じるのが艱難時代

イエスさまもそうだった

参照 マルコ15:34

15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

そういう過酷な時を、一時的に通る

でも神は聖書の中で前もって語っている

そういうことを神の憐れみによって学んでいる

前もって分かっているかどうかで、同じ艱難でも結果は異なる

前もって分かっていれば備えられる

神が見捨てたわけではなく、サタンが試しを持ちかけた、サタンの試しの時とも言える

主が憐れんでくださって、前もって語ってくださっている

 

30:24 それでも、廃墟の中で人は手を差し伸べないだろうか。その衰えているとき、助けを叫ばないだろうか。

30:25 私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか。

30:26 私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。

貧しい者、病める者の味方になった、しかし結果としては有罪になり、死刑になった

なぜ正しいのにそうなるのか?→この世が罪、この世が裁かれるから

終末、天の万象が焼ける→正しい人々に苦難を与えたから

この世の裁きは確定

神がこの世をそのように定めている

そのあたりを勘違いしていると、ひっくり返される

 

30:27 私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。

30:28 私は、日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、つどいの中に立って助けを叫び求める。

30:29 私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。

30:30 私の皮膚は黒ずんではげ落ち、骨は熱で焼けている。

30:31 私の立琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ声となった。

30節「黒ずむ」:罪の象徴

正しいのに「罪人」扱いされる、正しい人が罪人として命を失う

キリストのこの世の生涯がまさにそうだった、ゆえに私たちも同じ

アメリカは正しいクリスチャンを有罪にするトリックを使っている

この世が本性をあらわしている

裁判に勝つことは考えない

有罪にされたからといって本気で怒らないこと

でも神の前に正しいことにポイントがある

たとえこの世でどう思われても、どうってことはない

キリストのように一歩も退かずに正しく御言葉をおこなっていきたい

どういう状況であっても、どこまでもキリストの言われたことをまっすぐに歩む、進むべきところへ進んでいく