ヨブ記34章 2013.2.3

 

34:1 エリフは続けて言った。

34:2 知恵のある人々よ。私の言い分を聞け。知識のある人々よ。私に耳を傾けよ。

34:3 口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分ける。

34:4 さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見分けよう。

34:5 ヨブはかつてこう言った。「私は正しい。神が私の正義を取り去った。

艱難時代、正しさは人には認められない

人からの理解は期待しないほうが良い

罪が無いのに「罪がある」と言われる

聖書はキリストの色々な面を証している

ヨブ:苦難を受けるしもべとしてのキリストの型

3:ヨブが正しいか正しくないかは、ヨブの言っていることで分かる

エリフの結論:思い込みでありもしないことを言っている、ヨブの悪い姿の妄想が広がって非難している

思いの中で悪い妄想が浮かんでしまう

どこまでも神の示しに従って歩むときに神の民から理解されず、悪者扱いされる

それでも従っていくのか?

従いや歩みが試される

召しに対するより分けや試しがある

(神の)試験を通過したときに良いことがある

神の試しを経ても残る

 

34:6 私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は直らない。」

34:7 ヨブのような人がほかにあろうか。彼はあざけりを水のようにのみ、

34:8 不法を行なう者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ。

34:9 彼は言った。「神と親しんでも、それは人の役に立たない。」

エリフとヨブの言っていることは違う

ヨブが正しい

しかしヨブが悪者だと言っている

艱難時代は、正しくても悪者だと思われる

参照 イザヤ書53:79

53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

イエス・キリストの苦難のメシヤとして来られる預言

9:強盗が一緒に十字架にかかった

強盗と一緒に葬られた

すなわち死ぬまで汚名を着せられた→キリストの歩まれた道

クリスチャンはキリストと同じような歩みをしていく

一面:カリスマ

もう一面:正しいゆえに悪く言われる

死後も汚名が取れない

今のキリスト教会は勘違いしている→神の愛は強調する、しかし「神への愛」は言われない

キリストのような歩みをしていく

参照 黙示録11:812

11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

11:9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。

11:10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。

11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。

11:12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

正しいクリスチャンの墓に関して

9:イエスさまが悪者と一緒にされたことと同じ、正しいクリスチャンが認められない、死後も名誉が回復されない

1012:復活と携挙について

7:1(7)3日半:半週(3年半=42ヶ月)

3年半は、ずっと悪者扱い

11:死者のよみがえり

参照 Ⅰテサロニケ人への手紙4:1517

4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

二人の証人の殉教とよみがえりの別の表現

艱難時代の終わったあと主が来られ、復活があり、再臨があり、地上に裁きがある

地上で名誉回復は無い

キリストも逆転無罪にはならなかった、しかしよみがえった

 

34:10 だから、あなたがた分別のある人々よ。私に聞け。神が悪を行なうなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。

34:11 神は、人の行ないをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。

34:12 神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。

34:13 だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。

34:14 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、

34:15 すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。

全能者に罪はない、ゆえにヨブに罪があると言っている

参照 イザヤ書53:10

53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

神の御心の中で苦難のキリストが来た、ヨブも似たような苦難を受けている

表面的なことしか見ないクリスチャンからは、理解してもらえない

 

34:16 あなたに悟りがあるなら、これを聞け。私の話す声に耳を傾けよ。

34:17 いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。

34:18 人が王に向かって、「よこしまな者。」と言い、高貴な人に向かって、「悪者。」と言えるだろうか。

34:19 この方は首長たちを、えこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることはない。なぜなら、彼らはみな、神の御手のわざだから。

34:20 彼らはまたたくまに、それも真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらないで取り去られる。

34:21 神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ。

神は正しいから悪い者に報いをする、ゆえにヨブが悪いことをしたから悪い目に会っているという論理

 

34:22 不法を行なう者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない。

34:23 人がさばきのときに神のみもとに出るのに、神は人について、そのほか何も定めておられないからだ。

34:24 神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、これに代えて他の者を立てられる。

34:25 神は彼らのしたことを知っておられるので、夜、彼らをくつがえされる。こうして彼らは砕かれる。

34:26 神は、人々の見ているところで、彼らを、悪者として打たれる。

34:27 それは、彼らが神にそむいて従わず、神のすべての道に心を留めなかったからである。

34:28 こうして彼らは寄るべのない者の叫びを神の耳に入れるようにし、神は悩める者の叫びを聞き入れられる。

34:29 神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。一つの国民にも、ひとりの人にも同様だ。

34:30 神を敬わない人間が治めないために、民をわなにかける者がいなくなるために。

神は正しいから悪い者に報いをする、ゆえに神にあって災いを受けるのは悪い者という論理

 

34:31 神に向かってだれが言ったのか。「私は懲らしめを受けました。私はもう罪を犯しません。

34:32 私の見ないことをあなたが私に教えてください。私が不正をしたのでしたら、もういたしません。」と。

34:33 あなたが反対するからといって、神はあなたの願うとおりに報復なさるだろうか。私ではなく、あなたが選ぶがよい。あなたの知っていることを言うがよい。

34:34 分別のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言う。

ヨブは知識が無いと言っている

 

34:35 「ヨブは知識がなくて語る。彼のことばには思慮がない。」と。

34:36 どうか、ヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。

34:37 彼は、自分の罪にそむきの罪を加え、私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする。

ヨブの罪に対して神が悪い報いを与えているということを言っている

正しいゆえに苦難に会うという型

ある意味、神が許して起きていること

参照 イザヤ書53:46

53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

神に悪いことをしたから罰せられたと思われた

イエス・キリストの痛みによって癒された

イエス・キリストが打たれたことによって、私たちは癒された

艱難時代、キリストの公生涯の3年半が再度繰り返される

しかし苦難を受けるならキリストと共に栄光受ける

どういう面も主に従い通していきたい