ヨブ記42章 2013.3.31

 

42:1 ヨブは主に答えて言った。

42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

2(KJV):あなたには、どのような考えもお見通しであることが分かりました

終末の日の災いに関して→神がすべての人の心を見きわめるために来る

神さまは心の奥底まで見きわめる

それゆえにキリスト教会に災いが起き、偽りに入っていく

神の判断で災いが起こされるので、文句は言えない

今も、それぞれの行いや歩みにしたがって神は公平に報いをしている

 

42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。

摂理:目的

摂理をおおい隠す:目的を隠す

分かっていないのに、色々言うので、神の意図していることと反対のことを言ってしまう

参照 ヨブ記38:2

38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

終末の日の大きな問題点:終末に持っている神の目的隠してしまう

Ex:艱難前携挙説

クリスチャンが喋れば喋るほど、終末のことを覆い隠してしまう

私たちも間違える可能性がある

主が語られていることを何とか求めていく

封印を開くような方向へ導かれることにポイントがある

終末は、愚かな娘&賢い娘の区分をする時

 

42:4 どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。

42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

42:7 さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

42:8 今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」

なぜ、ヨブの友人は間違えて、ヨブは正しかったのか?

「しもべ」にポイントがある、こういったことに関して、聖霊にあって注意深く聖書を読む

神が繰り返し言っていることは、何かあるという視点で読む

「しもべ」とは、キリストのしもべに通じる

パウロもそうだった

パウロも、しもべだから掲示が与えられた

神のしもべになっていくときに恵みを受ける、真理や啓示をはじめ、見えるべきものが見える

しもべの歩みをしていない人は真実を語らない、逆に妨害になっている

しもべの歩みをしていくなら、神に対しての真実が見えてくる

そのように行う人は、その実を見る、しかし行いがないなら、無意味なことを言ってしまう

 

42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。

42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

42:11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。

42:12 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。

42:13 また、息子七人、娘三人を持った。

42:14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。

42:15 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。

42:16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。

42:17 こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。

12:後の半生は祝福されたものになる

2つの世がある→今の世&後の世

聖書のパターン→両方、良いことはない

イエスさまがそうだった

後の世or今の世のどちらかを選択しなければいけない

参照 ルカ16:1925

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、

16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

16:22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

ラザロはヨブに似ている

今の世と、後の世は違う

今の世で、どういう歩みを選択するかで、結果が異なる

今の世で、良いものを受け続けて、求め続けているのは、後の世が危ない

金持ちの罠に入るクリスチャンがある

主に従って、結果として苦しんだとしても、後の世で逆転する

そのあたりを勘違いしてはダメ

良いものを求め続けていくのはNG

良いものを探し歩く人生は、後の世で危ない

主に仕えていくような歩みを優先したい

主のしもべとして歩むことにポイントがある

聖書には、ハッキリ書かれていないけれど、金持ちとラザロの話を通して2つ良いことはないことが理解できる

今の世と後の世は、正反対にリンクする

そのあたりに焦点を置いて歩む