ローマ人への手紙9章 2010.12.19,12.26,2011.1.2

 

9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。

9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。

9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

第一義的な意味合い:肉による同国人、肉の子ども

2種類のクリスチャンについて語られている

肉的なクリスチャン、霊的なクリスチャン

肉的なクリスチャンの悲劇や問題について言われている

本来受けるべき祝福に入らない、名目だけの祝福→結論として呪われる

 

9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。

すべての約束は文字通りある

しかし肉的なクリスチャンに成就しなかった→このことは今のクリスチャンにも当てはまる

肉的に歩むなら約束は成就しない

律法の効力を発揮しない(恵みや祝福に至らない)

 

9:5 先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

イエス・キリストは神、しかし信じがたい

神の言葉は信じがたい、しかし信じる人に御心がある

 

9:6 しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

クリスチャンと名が付いていても神の前にクリスチャンと見なされているわけではない→狭い門、狭い道であることを理解する

 

9:7 アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」のだからです。

すべてが神の子ではない

 

9:8 すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

2種類の子どもがいる

肉の子ども,約束(御霊)の子ども

肉の歩みをするのか?聖霊にある歩みをしていくのか?

 

9:9 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」

9:10 このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。

リベカ 同じ親(イサク、リベカ)から生まれた双子の子どもに関しても同様のことが言える

それぞれの子どもが全然違う歩みをした

ヤコブ:長子の権利を得た

エサウ:長子の権利を放棄して俗悪な歩みをした

同じ親から生まれても2種類の運命がある

神の子どもに2種類の区分がある

 

9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、

9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。

エサウ、ヤコブは別の道を歩んだ

エサウ:長子の権利を受け継がない

ヤコブ:長子の権利を受け継ぐ

洗礼を受ける前から(まだ生まれてもおらず)歩みが異なる

召し、神の選びがポイント→これによって歩みが根本的に異なる

ヤコブは長子の権利を得ることを自分で選んだ

エサウは破棄した

今のクリスチャンへの語りかけ

あるクリスチャンは神に用いられる(栄光を見たり働きを担ったり祈りが答えられたりする)

あるクリスチャンはトラブル続き

それは行いや能力ではない

選びと召しが重要

神から声がけがあったときに、それにきちんと応答するかどうかによって歩みが異なってくる

召しをつかむのか(イサクやヤコブのように)、つかまないかによって全く違う道に入る

選ばなければいけない

神の方法は人の方法を覆す

声がかかったときに、ついていかない人はNG

神の神殿の一部を担う→神の働き

 

9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

霊にあるクリスチャン、肉にあるクリスチャン(ろくなことにならない)

このことは後の世(永遠の命)において深刻な結果をもたらす

色々な訓練を経て霊にあるクリスチャンに変えられていくことが大切

神様の教えをないがしろにしないこと

神様に祈り頼る→不可能も可能になっていく

生まれつきできること(たとえよいことであっても)はすべて肉→このことは永遠の区分をもたらす

聖霊による歩みがポイント

Ex イサク:聖霊にあるクリスチャン→財産(天の御国)を相続した

  イシマエル:奴隷()の子ども→家から追い出されてしまった

  二人ともアブラハム(たとえ:)から生まれた

  神の前に本当に神の子かどうか?

 

9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

エサウは自分で放棄した

ペテロやヨハネは自分で選んで主に従った

パリサイ人はイエスのことを鼻から相手にしなかった

自分で選ぶ者を選んでいる

召しに応答する者が御業や栄光を見ていく

 

9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。

9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

神が目を留められたらしめたもの

クリスチャンはこの世の常識しか見ない

神の視点は違う

神が目を注ぎ憐れんでくださるかどうか?→芽を出す

このことに目を留めないなら勘違い

 

9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

9:18 こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。

人が勘違いや思い違いをして、見当違いな教理をつかむのはなぜかについて書かれている

神がその人の心を頑なにさせられた

人が真理を見るのは神がその人の心に触れ憐れみ心をやわらかくしてくださるから

頑なな人は滅ぶ

頑なな人が多い、自分を正しいと思っている

パロは悪い型(惑わされたクリスチャンの型)→頑な

でも、もし正しく歩むなら神の憐れみを受ける

パロ王の型に入ってしまわないように祈ることが大切

神の声に耳を傾けないと頑なになってしまう

惑わしは神からくる

人の振り見て我振りを直す

主の力によって何とか見えるように、惑わされることのないように祈る

 

9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」

9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。

9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。

(聖霊を受けるための器、クリスチャンのこと)

器以外にもクリスチャンはたとえられている Ex:麦や魚

2種類のクリスチャン→①尊い器(KJV:誉を受ける器)、②つまらないことに用いられる器(KJV:不名誉を受ける器)

クリスチャンは二分される

主の言われた歩みに入ることがポイント→尊い器につくりかえられる

しかし最後まで頑なにしてしまうことに御心は無い→滅び

どこかで聖書的な常識を持たなければいけない

祈り、御言葉を読む習慣は神の力によって身に付いていく

 

 

9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

怒りの器というたぐいの器がいる

聖霊を受けて、ある種のクリスチャンは聖霊に聞き従い誉を受ける、恵みや憐れみを受ける

聖霊を受けながらもある種のクリスチャンは怒りの器になる

聖霊に逆らっている人は神の怒りの対象になる→滅ぼされる

クリスチャンの歩みはそれぞれ異なる

 

9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。

神が憐れんでくださるときに豊かな神の栄光を見ることができる

Ex:教会に終末のことが啓示される

神御自身が雲の柱、火の柱として導いてくださる

預言、夢、幻を通して語ってくださっている

 

9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

9:25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

9:26 『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

憐れみの器:今は未信者からもあらわれている

 

9:27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

9:28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

数え切れないほどの人がいる(アブラハムの子孫)

しかし残された者(KJV:remnant)にポイントがある

この終末を経て真の意味合いで救われるのは残りの少数の者

 

9:29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

終末の一つの特徴:残りの人は少ない

 

9:30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。

9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。

9:32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

9:33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

キリストに信頼して歩んでいくことが尊い

Ex:セミナー、ニュースレター、出版の働き等

神の御業を見ていく

:キリスト