箴言1章 2016.2.21

 

 

 

1:1 イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

 

 

 

「ソロモンの箴言」ということばに意味がある。

 

 

 

「ソロモン」とは、「シャローム(平安)」という意味がある。そしてそれは、「聖霊」の型である。

 

 

 

列王記や歴代誌や福音書の記述にあるように、シェバ(南)の女王はソロモン(聖霊)の知恵を聞きに来た。

 

 

 

つまり、「ソロモンの箴言」とは、「聖霊の箴言」とも言える。ちなみに「箴言」とは、「諺」という意味があり、英語では「たとえ」とも言われている。

 

 

 

そして多くの神の知恵や奥義は、「たとえ」を通して語られている。また、箴言も「たとえ」をもって語られている。ゆえに「たとえ」を通して奥義を理解する。そんな風に、みことばの表の意味合いだけでなく、裏の面(たとえ)も見ていきたい。

 

 

 

1:2 これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、

 

 

 

「悟りのことば」を理解することにポイントがある。

 

 

 

1:3 正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、

 

 

 

「公義」と書かれているように、ひとつひとつの事柄について、正しく神がさばく。

 

 

 

そして、もし、私たちの歩み中で悪いものがある場合に、罰が下される。

 

 

 

思慮ある訓戒(KJV訳):知恵ある者の指示

 

 

 

知恵ある者、すなわち聖霊がその時々の状況において指示を与えられる。「聖霊の指示」というものがある、ということを覚えておく。

 

 

 

そして、聖霊の語ることを尊重することが良い。

 

 

 

主がケースバイケースで指示を与えるので、従っていくときに恵みがある。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:かつてブラザレン系の教会に居たことがあった。しかし、そこを出てペテンコステ系の教会へと導かれた。その教会には神学校が併設されていて、「ここで学びなさい。」という主の指示があり、その声に従った。その結果は良いものとなり、恵みに入った。

 

 

 

ポイント:まず、指示を受けることが大事。聖霊からの指示が来る。その声が神からのものと判断したなら応じていく。そうするときに大きな恵みに入る。

 

 

 

1:4 わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。

 

 

 

「分別」が与えられる。

 

 

 

知恵=聖霊であり、聖霊は私たちに語ってくださる。

 

 

 

そして、聖霊の声に従う人は恵みを受ける。

 

 

 

1:5 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。

 

 

 

悟りのある者は指導を得る(KJV訳):悟りのある者は賢いカウンセリングを受ける

 

 

 

聖霊はお一人一人のクリスチャンにカウンセリングをする。

 

 

 

聖霊によるカウンセリングがある、ということを信じる。

 

 

 

そして、聖霊によるカンウセリングを求めていく人は恵みを受ける。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:奉仕の中で主とのカウンセリングをしてきた。たとえやなぞに関しての主のカウンセリングを仰いでいる。たとえば黙示録に書かれている、「星が天から地上に落ちる」(ヨハネの黙示録9章1節)とはどういう意味なのか?ということを教えていただくために、主に求めていったら順を追って教えてくださった。そのときに、「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(創世記15章5節)のみことばを示してくださり・・・そのことを通して、「星」は「クリスチャン」のたとえであることを理解した。そして、「星が天から地上に落ちる」とは、天にいるはずのクリスチャンが地(この世)に落ちる、すなわち天的なクリスチャンがこの世的なものとなってしまう、ということを理解した。

 

 

 

そんな風に・・・主が教えてくださることを信じて求めていくことにポイントがある。

 

 

 

1:6 これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。

 

 

 

御国の奥義は、箴言や比喩やなぞで語られる。

 

 

 

聖霊によって、これらのことを理解する。

 

 

 

比喩=たとえ

 

 

 

そのなぞとを理解するため(KJV訳):たとえとその解釈を理解するため

 

 

 

聖霊にあるときに、たとえとその解釈を理解することが出来る。

 

 

 

聖霊にあって聖書を読んでいくときに、たとえや御国の奥義を理解する。

 

 

 

1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

 

 

 

どうしたら知恵が増すのか?それは、「主を恐れる」こと。ゆえに主を恐れない人は、知恵を得られない。

 

 

 

たとえば、当時のパリサイ人や律法学者がそうだった。沢山の知識は持っていたが、永遠の命に至るべく真の知識は持っていなかった。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:神を恐れ、神のことばを優先していた。

 

 

 

ポイント:主を恐れていくときに、真の知識&真の悟りを得る。

 

 

 

1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。

 

1:9 それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。

 

1:10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。

 

1:11 もしも、彼らがこう言っても。「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい、

 

1:12 よみのように、彼らを生きたままで、のみこみ、墓に下る者のように、彼らをそのまま丸のみにしよう。

 

1:13 あらゆる宝物を見つけ出し、分捕り物で、われわれの家を満たそう。

 

1:14 おまえも、われわれの間でくじを引き、われわれみなで一つの財布を持とう。」

 

 

 

このことは主の時に成就した。

 

 

 

11節がまさにそう。イエス・キリストを十字架に付けて殺した。

 

 

 

世の終わりにもこのことは再現すると思われる。→黙示録には、正しい人々が殉教することについて書かれている。

 

 

 

13節の「宝物」とは、神の前に正しいクリスチャンのこと。

 

 

 

14節では「くじ」について書かれている。イエスさまの時にも、「くじ」が引かれた。このことはエステル記の「プリム」にも通じる。つまり、「くじ」は、イエスさまのように正しい人々を罪に落とすために用いられる。

 

 

 

1:15 わが子よ。彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。

 

1:16 彼らの足は悪に走り、血を流そうと急いでいるからだ。

 

 

 

こういった人々に、どう対応するか?

 

 

 

「彼らといっしょに道を歩いてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。」と書かれているように、このような人々に加わることには御心は無い。

 

 

 

1:17 鳥がみな見ているところで、網を張っても、むだなことだ。

 

1:18 彼らは待ち伏せして自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。

 

 

 

正しい人々を狙っている人々は、滅ぼされる。

 

 

 

正しい人々を罪に定めるクリスチャンは、滅びる。

 

 

 

世の終わりは、クリスチャンの真実が表れる時。

 

 

 

そして、「網を張っても、むだ」とか「自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているのにすぎない。」とあるように、結局のところ自分を滅びに落とし入れるだけ。テサロニケ人への手紙に、「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」(Ⅰテサロニケ人への手紙5章3節)と書かれている通り。

 

 

 

ゆえに、どこまでも真理に堅く着いていきたい。

 

 

 

1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。

 

 

 

利益をむさぼる人は、危なくなっていく。

 

 

 

1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、

 

1:21 騒がしい町かどで叫び、町の門の入口で語りかけて言う。

 

 

 

聖霊が教会で語る。そして、クリスチャンにも語っている。

 

 

 

しかし、問題は私たちが聞かないこと。

 

 

 

けれども福音書や黙示録で、「耳のある者は聞きなさい。」とあるので、きちんと聖霊の声を聞いていきたい。

 

 

 

1:22 「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。

 

 

 

クリスチャンの中でも、わきまえのない人がいる。

 

 

 

しかし、真理を求めない人は恵みが無い。

 

 

 

1:23 わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

 

 

 

「わたしの叱責に心を留めるなら、」とあるように、神の戒め&叱責が必ずクリスチャンに来る。

 

 

 

ここが良くない、というときに、必ず「叱責」が来る。「叱責」が来る、ということには意味があり、理由がある。意味無く、「叱責」は来ない。

 

 

 

ゆえに、神の叱責を叱責としてとらえていく。神からの「叱責」を受けたときに、歩みを糾すかどうか?

 

 

 

「叱責」を受けたら、どこかで自分のほうで歩みを変える。

 

 

 

1:24 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。

 

1:25 あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。

 

 

 

これはNG。

 

 

 

1:26 それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。

 

1:27 恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、

 

1:28 そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。

 

1:29 なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、

 

1:30 わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。

 

 

 

あらゆる形で叱責をしても、言うことを聞かないときに災いが来る。

 

 

 

1:31 それで、彼らは自分の行ないの実を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。

 

1:32 わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心は自分を滅ぼす。

 

 

 

聖霊の声を聞かないときに、行った報いを受けてしまう。

 

 

 

1:33 しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

 

 

 

聖霊の声に聞き従うことが大事。サムエル記に、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル記15章22節)と書かれている通りである。

 

 

 

それゆえに聖霊の声を聞くことを習慣とする。

 

 

 

そうすることで、聖霊に聞く力もだんだんと強くなる。ゆえに主の声を聞いていきたい。そうするなら、神からの助けを受ける。

 

 

 

本日のポイント:聖霊は語ってくださるので、その声を聞いていきたい。