詩篇15篇 2013.7.14



 



15篇のポイント:どんな人が神の幕屋に宿り、聖なる山に住むか?



 



15:1 主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。



「幕屋」とか「山」とかは、物理的なことではない



山に小屋を建てるとか、そんなことではなく、たとえの意味合いがある



新約で言うなら、「聖霊の臨在」のことを言われている



どういう人に聖霊が宿るか?について



神の臨在があるかどうか?は、クリスチャンの基本であり根本的なもの、そしてこのことはクリスチャンの歩みや働き(メッセージとかも含めて)と関係がある



かつてエレミヤ牧師が行っていた教会の牧師が、「メッセージをしていて神の臨在が無くなったらおしまい」ということを言っていたそう、当時はあまりピンと来なかったということですが、今は分かるそうです



神の臨在が無くなる=全然聖霊が働かない



神が共におられてなんぼのもの



ゆえにこのことばは大事



幕屋に主がいなかったらおしまい



クリスチャンのあらゆる歩みは聖霊があってなんぼ



キリストがいなかったら無になる



クリスチャンの大事なポイント:聖霊の臨在を保ち続ける



聖なる山に居続けて、歩みや働きがまともになる



神の前の成功、不成功は、その人がどこに住んでいるか?によって決まる



聖霊の臨在に住むことが大事



たとえばエレミヤ牧師が住んでいる団地の近くにはオフィスビルがあって、ランチ時にはオフィスビルを出てすぐの所にお弁当屋さんがあるので、そこで働いている人たちがそこにお弁当を買いに来る、販売している場所が良いために大勢のお客さんが来てくれる、このことから商売が繁盛するか否か?において場所が大事だということが分かる



それと同じくクリスチャンも、どこに住むか?は大事なこと



聖霊の臨在にとどまり続けていくなら、クリスチャンとしての成功は間違い無い



しかし別の臨在にとどまり続けていくときに別の所へ行ってしまう、そうすると神の栄光はあらわれず、逆に妨害に用いられ、天の御国に入らない可能性がある



主の臨在を求めていく、そうすると特別なことをしなくても色々と教えてもらえる



聖霊によって教えられる、また、聖書通読によっても教えられる



聖霊の臨在に力を入れていく、そこに力を尽くす



また、そこに住める人の条件について2節に書かれている



 



15:2 正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。



正しいことを行う、真理を語る人にポイントがある



全然聖書が語っていないメッセージを語っていくときに臨在が無くなっていく



損になっても真理に留まって語っていく



ある時、エレミヤ牧師は艱難前携挙説を捨てた、すると終末の必要な真理を教えてもらえるようになった、たとえばサルデスや獣の国の真理を教えてもらえた、それは幕屋に留まり続けたゆえのこと→たとえ不利になっても留まり続けることにポイントがある



 



15:3 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。



兄弟を憎む者は人殺し



今の時代、難しい、だからと言って憎んだりするのはNG



この世は非難の押収



キリスト教会にも同じようなトレンドが来ている、なんでもかんでもカルト扱いをする



どんどん人を非難する、しかしそんなことをしている人は神の臨在に留まれない



悪霊の臨在に留まってしまう



たとえ相手に悪いことをされても、口をとどめて悪を行わないようにする



Ex:ダビデはサウルに悪いことをされても悪口を言わなかった



また、相手が悪くても祈っていくときに変わっていく可能性がある



 



15:4 神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。



損になっても誓いを変えない



参照 士師記11:30,31,34,35



11:30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、



11:31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」



11:34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。



11:35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」



ひとり子である娘を捧げることになったエフタは神への誓いを取り消さなかった



このことことに関連して、ここでは2つのことを語っている



①神ご自身の捧げ物の型



参照 ヨハネ3:16



3:16神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。



②自分の大事なものであっても、誓ったものは捧げたり犠牲を払ったりする



神も犠牲を払ったので、私たちも犠牲を払う



人から非難を受けても、神が言われていることは語る



神が語っていることは都合が悪くても語っていく Ex:聖書の暗号等



自分の評判を一番にして、神が語っていることをやらなかったらそれまで



再び詩篇に戻ります



損になっても変えないときに幕屋に留まり続けていける、あらゆる祝福の基になる、力、幻、啓示、助けの基となる



 



15:5 金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。



人から害を受けても仕返しをしないこと



ずっとどれもこれも守り続けていくときに幕屋に留まり、そして揺るがされない、また、必要な真理を見ていく



あらゆることは神の助けの中で自然に進んでいく→特別努力しなくても、基は神の幕屋に留まり続けること Ex:セミナー