詩篇35篇 2013.12.1

 

※ダビデの歩み→艱難時代を経過する私たちの型

 

35:1 主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。

35:2 盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がってください。

35:3 槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。私のたましいに言ってください。「わたしがあなたの救いだ。」と。

35:4 私のいのちを求める者どもが恥を見、卑しめられますように。私のわざわいを図る者が退き、はずかしめを受けますように。

ダビデに戦いを仕掛けてくる人がいる

Ex:サウル王、息子のアブシャロム

たしかにダビデは戦いを挑まれた、でも、どこまでも主に頼りきった、そして結果として助けられ、王となった

主に従うがゆえに、理不尽な戦いに巻き込まれることがあっても、投げ出さないこと→神を私たちの助けとし、そのように歩む

たとえ相手が自分よりどんなに強くても、あるいは自分の力が及ばなくても、主に頼り、必要な戦いをしていきたい

また、祈って神さまに聞き入れてもらっても、その後、妨害されることもある

ダニエルがそうだった

参照 ダニエル書10:12,13

10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

10:13ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、

12節のみことば「あなたのことばは聞かれている」とあるように、たしかにダニエルの祈りは神に聞き届けられた、しかし、ペルシヤの君(多分サタンのこと)に21日間立ちはだかれ、妨害された、でも、その後、天使(ミカエル)が助けに来てくれた

そして、詩篇1節「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください」と書かれているように、主に戦ってもらうのが一番、これは一見、他人任せのようにも聞こえる、しかし、この方法がベスト

戦いに関して、主の働きをカウントする→勝利を得る

神の御心を行っていくときに、自分の身にあまるような戦いがゆるされる時がある、でも、主を頼っていきたい

 

35:5 彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使いに押しのけさせてください。

35:6 彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、主の使いに彼らを追わせてください。

対峙してくる敵の働きに関して、「主の使い」ということが言われている

「主の使い」は助けてくださるので、数の中に入れて祈っていく

ただし、正しく歩まないと、主の使いに追われてしまうので気を付ける

Ex:アハブ王の時の400人の預言者は偽善のゆえに、サタンによって偽りの霊を入れられてしまい、災いに入ってしまった

参照 Ⅰ列王記22:1923

22:19 すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。

22:20 そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。

22:21 それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。

22:22 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。

22:23 今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

「主の使い」は、正しく歩むときに、私たちの助けになったり、必要なことを語ったり、教えてくださる

そして危ないときに、助けを与えてくださる

本当に御心を歩んでいこうという気持ちがあるときに、御使いを通して気づきを与えてくださったり、危険に対してストップをかけてくださることがある

Ex:バラムがろば(聖霊のたとえ)に乗って、神が行ってはならないと言った道を行こうとしたときに、主の使いによって道を阻まれた

参照 民数記22:2133

22:21 朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。

22:22 しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた

22:23 ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。

22:24 しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。

22:25 ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。

22:26 主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余地のない狭い所に立った

22:27 ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。

22:28 すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」

22:29 バラムはろばに言った。「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ。」

22:30 ろばはバラムに言った。「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか。」彼は答えた。「いや、なかった。」

22:31 そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ

22:32 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ

22:33 ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう。」

上記バラムのことは決して他人事ではない

間違えた道を歩んでしまっている時に、気づきを与えてくださる

気付くようなしるし、サインが来た時には、気付くようにしたい

もし、私たちがバラムのように違う道に入っていたら、神が御使いを通してとどめさせる

 

35:7 まことに、彼らはゆえもなく、私にひそかに網を張り、ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、穴を掘りました。

35:8 思わぬときに、滅びが彼を襲いますように。ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、滅びの中に彼が落ち込みますように。

35:9 こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむことでしょう。

35:10 私のすべての骨は言いましょう。「主よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。悩む者を、彼よりも強い者から救い出す方。そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」

正しく歩んでいくときに、こういうことがある

 

35:11 暴虐な証人どもが立ち私の知らないことを私に問う。

35:12 彼らは善にかえて悪を報い、私のたましいは見捨てられる。

こういうことをダビデは経験した、しかしこのことは、主の生涯を垣間見る

Ex:主を訴えるために、偽の証人が立った

参照 マタイ26:5962

26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた

26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、

26:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」

26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

主は、こんな風に偽証を立てられた、しかし、実際に主は、そういう人たちに対して、命に至るメッセージを語ったり、癒しを行ったりと、良いことだけをしている

しかし結果として、「善にかえて悪に報い」られた→これはまさに、これから来る3年半の艱難時代に起きてくる

残念ながら、これからはこういう時代に入る

その人のためにとりなしたり、祈ったりしていても、悪口を言われたりする、恨まれたりする、そういう時代に入っていく

 

35:13 しかし、私は――、彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。私は断食してたましいを悩ませ、私の祈りは私の胸を行き来していた。

35:14 私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、母の喪に服するように、私はうなだれて泣き悲しんだ。

35:15 だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、私の知らない攻撃者どもが、共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。

35:16 私の回りの、あざけり、ののしる者どもは私に向かって歯ぎしりした。

これも、主の時に起きている

Ex:主が十字架に付けられた時に、罵られたり、嘲られたりした

参照 マタイ27:3843

27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、

27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

27:42 彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから

27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

こういうことは望ましくはない、でも、残念ながら、こういうことが起きてくる

しかし、ダビデやキリストの歩みがどこまでも模範→そういうことをされたとしても、ダビデがサウル王を殺さなかったように、キリストが罵り返さなかったように、自分でやり返したりしないこと!!

 

35:17 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。どうか私のたましいを彼らの略奪から、私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。

35:18 私は大きな会衆の中で、あなたに感謝し、強い人々の間で、あなたを賛美します。

35:19 偽り者の、私の敵を、私のことで喜ばせないでください。ゆえもなく私を憎む人々が目くばせしないようにしてください。

35:20 彼らは平和を語らず、地の平穏な人々に、欺きごとをたくらむからです。

35:21 彼らは私に向かって、大きく口を開き、「あはは、あはは。この目で見たぞ。」と言います。

35:22 主よ。あなたはそれをご覧になったのです。黙っていないでください。わが主よ。私から遠く離れないでください。

35:23 奮い立ってください。目をさましてください。私のさばきのために。わが神、わが主よ。私の訴えのために。

35:24 あなたの義にしたがって、私を弁護してください。わが神、主よ。彼らを私のことで喜ばせないでください。

35:25 彼らに心のうちで言わせないでください。「あはは。われわれの望みどおりだ。」と。また、言わせないでください。「われわれは彼を、のみこんだ。」と。

35:26 私のわざわいを楽しんでいる者らは、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私に向かって高ぶる者は、恥と侮辱をこうむりますように。

罵ったり、迫害した人は命を失っている→災いは必ず来る

いずれ神からの厳然たる裁きが来るので、自分では絶対に復讐しないこと!

 

35:27 私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」と。

35:28 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。

神のしもべとして歩んでいくときに、神の目の前に繁栄する、正しいものを見ていく、そして神に認められる

今の時代、多くの教会が教理的にも霊的にもおかしくなっている、ゆえに建前や人前はともかく、神の前には繁栄しているとは言えない

しかし、神のしもべには繁栄がある