詩篇38篇 2013.12.22

 

38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。

38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。

38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

38:5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

38:7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。

38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

詩篇にも、色々な部分がある

詩篇38篇は、神の怒りが激しく下り、懲らしめがきているということを言っている章

基本的にダビデの生涯は輝かしく、戦いにおいても連戦連勝の将軍であり、後に王にもなった

しかし、それだけでなく、神の前に罪を犯し、厳しい懲らしめやムチを受けた

私たちも全くダビデと同じでなくても、似たようなもの

恵みを見たり栄光を受ける、しかし罪を犯して、主からの怒りを受ける

そして基本的には、神は意味無く、あるいは理不尽には怒らない

咎と罪があるゆえに怒る

,,5節に書かれているように、叩かれたり、憤られたりすると大変、しかし理由がある

厳しい神の怒りがダビデに下ったので、嘆いて歩いている

けれどもそれをもって、ダビデの歩みがまっすぐになった、悔い改めて元の道(命への道)に戻った、そして永遠の命をゲットした

神からの懲らしめや叱責はたしかに辛い、でも、それで永遠の命をゲットできるなら、良しとする

参照 マタイの福音書5:29

5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです

たとえ手や足に障害を負っても、永遠の滅び、すなわちゲヘナに入るよりかは良い

いわく神から罪を示されて叱責されて懲らしめられた時には、抵抗したり頑なになったりせずに悔い改める、主が言われることや、なさることが正しいので歩みを糾したほうが良い

神は理不尽に叩くことはないので、しかるべきところで神と争わずに指摘されているところは歩みを悔い改めたほうが良い

そして罪から離れて正しい歩みに入るなら、すべてのことが益になる

Ex:故三浦綾子姉は、クリスチャンになった当初、寝たきりの生活を送っていた、しかしキリストを知るようになってだんだんと良くなり、すばらしい文章の奉仕に入っていった、病の中で砕かれていった、そういう意味合いでは、病は姉妹にとって益だったのでは?と言える

私たちもダビデのように、大変なことを受けるかもしれない、しかし、たとえ神にお尻を叩かれても益なるし、将来を考えると、これは大事なことと言える

あらゆる罪に対して、神は厳しく怒る

そして私たちが考えている以上に、罰は多く来る

反対に罰が軽いと甘く見てしまう、ゆえに重い罰は適切

参照 箴言13:24,23:13,14,29:15

13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。

23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。

23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。

29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

 

38:9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。

38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。

色々と試される、場合によっては自分の罪のために力がなくなったり、何も見えなくなってしまう

Ex:艱難前携挙説が正しく見えるのは霊的におかしい、見るべきものや根本的なことが見えていない、しかしこれは問題

罪があると見えない

光、真理を求める

主に祈り、求めていくときに、福音書に書かれている「生まれつきの盲人」のように、だんだんと見えるようになる

たとえば獣の国がどこなのか?終末に何が起きるのか?艱難時代はどんな時代なのか?について、理解する

正しく主についていくときに、解決方法を教えてくださったりする

見えるのは、大事なポイント

 

38:11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。

38:12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。

12節:サウル王のように、ダビデに罠を仕掛けた人が現実にいた

このことは、今の私たちにも語りかけがある

正しく歩もうとしたり、弱っている時とかつまずいている時に、敵は色々と言ってくる

人だけではなく、永遠の命を奪うことを目的としているサタンが罠を仕掛けてくる

クリスチャンも、罠から例外ではない

Ex:Ⅰテモテ6章の「霊知」ということば、これはKJV訳とは異なる、実際には「科学」と訳されている、随分意味合いが違う

Ex:Ⅱペテロ1章に「私的解釈を施してはならない」と書かれている、それをもって多くのキリスト教会やクリスチャンは「霊的解釈はよくない」等と言っている、しかし原語の意味合いは、「それ自身の解釈、そのテキストのみからの解釈」とか「そのテキストのみから、預言を解釈するのではなく、他の箇所をも参照する」とある、これも全く異なる、ゆえに罠と言える

Ex:キリスト教書店でシリーズで販売されている「レフトビハインド」は、艱難前携挙説を宣伝するための小説、しかしこれによって、多くのクリスチャンが艱難時代の備えを怠っている

滅びへの罠を仕掛ける者がいるという前提で歩む

ちなみに「霊知」、すなわち「科学」に引っ掛かる人は、命(永遠の命)を失う

Ex:進化論は正しい

サタンの1つの方法は、耳元で語るという方法

サタンは昔から欺きを語っている

Ex:エデンの園でエバは蛇(サタン)にみごとにだまされた、神から「善悪の知識の木から取って食べたら、必ず死ぬと言われていたにも拘わらず、蛇(サタン)決して死にませんという嘘(欺き)を吹き込まれ、そしてそれを信じて食べてはならない木から取って食べて、永遠の命を失ってしまった

しかしながらエバのことは決して他人事ではない、今の時代を生きる私たちクリスチャンへの教訓、このこと(サタンの欺き)は、今もなお実在する

そしてサタンは今でも私たちの耳元で語る

ある人々は偽りを信じて滅ぶ、しかしペテロやヨハネやパウロのように、だまされる人は多い中でも偽りに正しく対応し、正しく立つ人もいる

「欺き」は、私たちと重々関係がある

霊的なことに目を留めるときに、偽りを語るということに気付く

そして、だんだんと見分けがつけられるようになる

偽りを語るというポイントを理解しておく

惑わしの声が色々とある

どんなことにも、偽りの声がくる

偽りの声を聞いてしまうと、歩みや働きが変な方向に行ってしまうので気を付ける

 

38:13 しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。

38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。

38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。

こういう声を聞くのはダメ

欺きの声は聞かないほうが正しい

そういう状況でも、祈り求めていくことが正しい結論

神の答えを求めていくのが良い

祈ると、方向性を導いていただける

主に求めていくのが正しい

 

38:16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」

38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。

38:18 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

38:19 しかし私の敵は、活気に満ちて、強く、私を憎む偽り者が多くいます。

38:20 また、善にかえて悪を報いる者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています。

自分自身が罪に入り、不安になったときに、敵が輪をかけてそうする

しかし、主に頼って耐えていきたい

 

38:21 私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。

38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

主に求めていくことをしていきたい

たとえ罪を犯してしまっても、悔い改めていく

そして弱って敵につけこまれても、主に祈って元のところに帰っていきたい

主に堅くついていきたい

Ex:ダビデは一時的に王位から外された、しかし戻るべきところに戻った