詩篇48篇 2014.3.2

 

 

 

48:1 主は大いなる方。大いにほめたたえらるべき方。その聖なる山、われらの神の都において。

 

48:2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。

 

「神の都」は、この時代においてはエルサレム、新約時代もそれと同じ型

 

参照 ヨハネの黙示録21:2

 

21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

 

 

 

48:3 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。

 

やぐら(KJV):砦(とりで)→防空壕のようなもの

 

神は砦、逃げ場

 

戦時中、防空壕に入っている人と、そうでない人が違ったように、信仰においても神を砦とするかしないかで変わってくる

 

神を砦とするなら、色々な妨害や攻撃から守られる

 

主は私たちにとって砦、助け手

 

祈っていくのと、そうでないのは違う、祈っていく中で主の助けを見る

 

艱難は来る、しかし神の助けがある

 

 

 

48:4 見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。

 

王たちは相つどい(王たちが集まってくる)→ハルマゲドンの戦いに似ている

 

 

 

48:5 彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。

 

今、真理を見ていると苦難に会う、しかしこの日(6節に書かれている産婦のような苦痛の日)に大きな区分になる

 

 

 

48:6 その場で恐怖が彼らを捕えた。産婦のような苦痛。

 

「産婦のような苦痛」について

 

参照 Ⅰテサロニケ人への手紙5:2,3

 

5:2 主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 

5:3 人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

 

滅びる類いの人がいて、「産婦に産みの苦しみが臨むようなもの」とあって、これは詩篇のことばと似ている

 

終末の日の滅びや問題について言われている

 

参照 Ⅰテサロニケ人への手紙5:4

 

5:4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。

 

世の終わり、二種類の人がいる→暗やみにいなければ「産婦のような苦痛」に襲われない、しかし正しい人を迫害する人は襲われる

 

多くの人にとって破滅的なことが突然くる

 

なぜ突然くるのか?→艱難前携挙説やクリスチャンは裁かれない等と思い込んでいるため、予測と違うから

 

今、レムナントで言っていることは、後々大きな違いが出る

 

Ex:獣の国はアメリカ、艱難の前に携挙は無い、クリスチャンであっても裁かれる人がいる等

 

今言われている嘘、偽りの教理に皆ひっくり返される→その日がわなのように、妊婦の苦しみのように突然くる

 

真理が見えているのとそうでなのは、大きな違いになる

 

ある人にとっては突然襲われる、しかしある人は襲われない

 

レフトビハインド等の空想話を信じている人には、悪い意味合いでみことばが成就する

 

 

 

48:7 あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。

 

同じようなことが黙示録にも書かれている

 

参照 ヨハネ黙示録8:9

 

8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

 

参照 ヨハネ黙示録7:1

 

7:1 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

(水、すなわち聖霊の中に浮かぶものとして教会のたとえ)や(霊的なたとえ)が打ち砕かれる、すなわち教会が惑わしのリバイバルでおかしくなることを言っている

 

 

 

48:8 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。万軍の主の都、われらの神の都で。神は都を、とこしえに堅く建てられる。セラ

 

:教会

 

教会に関して二面を見る→堕落している教会がある、一方主についている教会は堅く建てられる

 

 

 

48:9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。

 

48:10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。

 

48:11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、ユダの娘が楽しむようにしてください。

 

神は良くも悪くもさばきを下される神

 

主は私たちに対してさばきを下す方

 

後の世もそう、しかし、今生きている生活もそう、神はさばき主

 

法律に関係なく、主は良い意味でも悪い意味でも、さばき主→良いことをすれば良い報いがくる、間違えた方向へ行くと訂正が来たり、ムチ打ちが来たりする

 

神はきちんと物事を見ている

 

忠実に行ったことをきちんと見ていてくださる

 

今、このことをきちんと経験する、主を知ることが大事

 

そうでないと艱難時代にひっくり返される

 

 

 

48:12 シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。

 

48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。

 

48:14 この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。

 

「とこしえに導かれる」と書かれているように、神さまはガイドしてくださる

 

神は導かれるお方

 

とこしえに導かれる(KJV):死に至るまで導かれる→寿命が尽きるまで必要な導きを与えてくださる

 

神は必要なところに導いてくださる

 

主に正しく従っていくなら、難しいところにも行くことができる

 

みことばに「命に至る門は小さく、その道は狭い、見出す者はまれ」「滅びに至る門は大きく、その道は広い、そしてそこから入っていく者は多い」と書かれているように、実際に天の御国に入るのは六重苦である、しかし主への従い&導きによって命への道を歩むことができる

 

主が真のガイドになってくださるなら導かれる

 

主の声を一歩ずつ聞いていくときに目的地に入る

 

主のガイドがあるなら狭い道に入る

 

きちんと主の声を聞けばガイドになってくださる、この方の声を聞いていくのがベストな選択