詩篇100篇 2015.3.1


感謝の賛歌



100:1 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。


たとえば、私たちは財布とかを落としたときに喜べないかもしれない。


主の前に喜ぶのは、何か良いことがあったから。


ゆえに主に祈り求めていくときに、あらゆる解決が与えられる。


主の前に喜びをもって感謝していくのが、本来のあるべき姿。ゆえに感謝して歩めるように祈り求めていきたい。


ちなみに「感謝」の反対語は?→「不平」とか「不満」。しかしこれらはNG。


主は良いことをしてくださるので、「感謝」ができるように求め、歩んでいきたい。


たしかにサタンは「あれも悪い」とか「これも良くない」なんてことを言ってくるかもしれない。しかしそれはサタンの声なので、気にせずに「感謝」を捧げていきましょう!


100:2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。


私たちは主に仕えていくことが大いに推奨されている。


けれども神さまは、強制はなさらない。しかし、聖書では一面このことをお奨めしている。


たとえ「損」に見えても、みことばを行っていくことに「恵み」がある。ゆえにそれに心や思いを留めて行っていきたい。


どんなに小さなことばでも、行う人に恵みがある。


参照 マタイの福音書5:19

5:19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます


ぜひ、みことばを行うことに心や思いを留めて実践していきたい。


たとえどんなに小さなことばであっても、行う人には「祝福」がある。


そして本当の意味で、入るべき所に入り、再臨の時に約束された人は、主に仕えていった人。


Ex:さいごの晩餐で・・・イエスさまは12弟子(イスカリオテのユダは除きます)に、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネの福音書14章2節)と言われた。


Ex:ペテロ、ヤコブ、ヨハネたちもそう。イエスさまから「私に着いて来なさい!」と声を掛けられた時に、彼らは自分の仕事を放って主に仕えた。舟も網も何もかも捨てて、主にくっついて行き、仕えていった。また、4千人、5千人の給食の時には、主に言われた通り、パンを配った。(会衆にメッセージを語った。)さらにあちらこちらに遣わされた。そして入るべき所(祝福や恵み。天の御国)に入った。


Ex:ペテロはイエスをキリストだと理解した。そして主から「あなたは幸いです。」と言われた。


参照 マタイの福音書16:15‐17

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。


しかし多くの群衆やパリサイ人は間違えた。群衆は、はじめの頃はイエスに着いていったが、しかしさいごはひっくり返された。それはキリストに仕えなかったゆえのことなのでは?と思う。しかし主に仕えた人はひっくり返らなかった。


「仕える」ということに関して・・・たしかに人間的には「損」に見えるかもしれない。


Ex:レストランに行き・・・お客の立場とウェイターやウェイトレスとではどちらが良いか?と質問されれば、大半の人は「お茶を飲んでいるほうが良い」と答えるのでは?


それと同じく、クリスチャン生活も、できれば楽をして・・・そこそこ歩みをして・・・なんていう風に考えるかもしれない。しかし「キリストに仕える人が入るべき所に入る」というのが聖書で言われている主張だということは正しく理解しておきたい。要するに12弟子をはじめ、仕えていった人に「天の御国」は約束されるのでは?と思う。こういうポイントに関しても、みことばを尊重する人に恵みや祝福がある。


「主に仕える」ということは、人間的には「損」のように見えるかもしれない。しかも仕える人は気楽ではない。それこそペテロやヨハネやヤコブをはじめとする12弟子は、寝食をキリストと共にしたのではあるが・・・しかしそれと同時にキリストに着いていくゆえに危険にもさらされた。また、群衆はお気楽である。しかしそんな中、弟子たちはパン(みことば)を配る。要は、働くのである。しかし、キリストに仕えていく人がもっとも大事な「永遠の命」を得る、というポイントは正しくとらえておきたい。


このように、みことばは結構大事なことを語っているのでそれを見ていきたい。また、主に仕えていく、というときに、自分の時間は無くなる、ということもとらえておきたい。


Ex:レストランで働いている人は、オーダーを取ったり、後片付けをしたりと、自分の時間は無い。しかも「エネルギー」も失う。


キリストに仕えていく、というのもそれと同じで、時間やエネルギーを失う。しかしそこがミソで・・・それに関連して少しみことばを見てましょう。


参照 マタイの福音書10:38,39

10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。


ここで「いのち」(永遠の命)について言われている。


ポイント:キリストのために、自分の命や好きな人生、楽しいこと、趣味などを「自分のもの」としたら、「永遠の命」を失ってしまう。


どんな風に生きるか?は、各自の自由。しかし、自分のために時間やエネルギーを使っている人は、「永遠の命」を失う、ということに通じる。そして「永遠の命」を失ったら最悪である。


クリスチャンだからといって、「すべてを無視しろ!」とは言わない。しかし自分のためだけに生きていく、自分を高める、趣味を高める、などと、自分を一番にするのは・・・このことは世の中の人には「美談」かもしれないが、しかし神の前では「永遠の命」を得ない可能性がある。


ポイント:キリストに仕えていくなら、自分のためには生きてはいけない。ペテロやヨハネのように両立は不可!ということは覚えておきたい。


「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」ということが尊いと言える。


クリスチャン生活の大事なゴール&近道:2つ良いことは無い。主に仕えていくと、趣味など、要は自分のために時間は使えない。しかし「永遠の命」を見出す。


エレミヤ牧師の証:時々誘惑がある。ある公共の場で、散歩をしながら祈り、途中で聖書を読み、メッセージの用意をしたり、新聞を読んだりしてそれで帰るのだが・・・ふと、その場所の3Fに行くと、趣味で、また、無料で「マージャ○」をやっている。お金も掛からないので、少しやりたくなる。でも、我慢している。ちょっとは見ているが・・・しかし我慢。


こんな感じで、エレミヤ牧師も結構やりたいことを我慢している。しかしそれで結果オーライだそう。主に仕える中で、得るべきものを得るようになっている。


ペテロやヤコブやヨハネもキリストに仕える中で、深い書簡を書いている。すごい真理を見ている。彼らはキリストに仕える中で、深い大事な霊的な富を得た。ゆえに「損」をしているようで、じつは「得」をしている。


しかし多くの人は見えるところしか見ていない。


ポイント:愚直に仕える。自分が犠牲になる。しかしこれらは「永遠の命」に関するので、聖書で言われている範囲でこのこと(仕えること)を理解したい。


100:3 知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。


私たちは主のもの(KJV):主が私たちを造られた。私たちがではない。


人を造るのは神であって、我々ではない。


たしかに「肉体」の誕生もする。しかし「新生」(クリスチャンとしての新生)もある。その際に、私たちの力や努力ではなく、神によって造られていく。


しかし世の中ではそうは言われない。その人の努力や力で伸びていく。


Ex:スポーツ→練習した人がうまくなる。成績→何時間も勉強した人が良くなる。


こういった感じで・・・この世の事柄は、皆自分の努力による。


しかし、「霊的」なことにおいては、神が成長させる。


参照 Ⅰコリント人への手紙3:6,7

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です

3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです


神が育てたり、造られる。そしてそれは実際にそうだと言える。


エレミヤ牧師の証:神に従う中で、色々な真理が見えている。「艱難前携挙説」が嘘であることや「行いが大事」であり、「行いによってさばかれること」や、キリストは「私たちの行い」に注目している、ということを理解した。少し前はこういうことが見えなかった。でも、神が見るのを良しとしてくださり、成長させてくださった。


ポイント:神に従う中で、成長させてくださる。


続いて、「牧場の羊」についても見てみましょう。


ここでクリスチャンを「羊」にたとえている。また、「羊」に意味がある。別の動物でも良いと思うかもしれないが、そうはいかない。「羊」にこだわる理由がある。


羊の特徴:弱い動物。すぐに狼に食べられる。ゆえに「羊飼い」が必要。


「羊」を囲っておかないと、いつ狼に食べられるか分からない。とにかく「羊」は弱い。


クリスチャンと言われて、自分が「羊(弱い)」と思う人とそうでないと思う人がいる。


たしかに人間は地上で「最強」と言われている。見える世界ではそうである。しかし見えない世界、いわゆる「霊の世界」においては違う。敵である「サタン」と比べたら、いいところ「羊」、すなわち「弱い者」ということを理解する。


問題:サタンの力が見えない。ゆえに「軽視」してしまうこと。


しかしそうは見えなくても、聖書の常識を尊重することに「恵み」がある。見えない世界においては、「弱い存在」だと認めていくことに御心がある。


羊は弱いので、100年経っても狼には勝てない。


しかしそうではあっても、「羊」が勝てる方法がある。それは「羊飼い」(イエス・キリスト)に着いていくこと。


このことにおいて・・・たとえ不本意であっても、聖書の言うことを尊重していく人が「恵み」を受ける。


Ex:ペンテコステ派の教会で、すごい賜物でサタンをやっつける!なんてことが言われている。しかしこれは「罠」である。じつはサタンが負けたふりをして、多くのクリスチャンを惑わしている。


ポイント:クリスチャンは「羊飼い」(イエス・キリスト)に守られて、なんぼのものという視点に立つ。そうしていくなら、得るべきものを得る!


エレミヤ牧師の証:分からないながらも、そういう風に歩んできた。リバイバル運動のことも、主の声を何とか聞こうとしたときに、必要なことを語ってくれた。トロントのビデオを通して、悪霊のリバイバルがキリスト教会にやって来るということを悟った。そのような主の声を聞いて、一線を置くようにした。そういうことを通してあらゆる霊的な惑わしから守られた。


私たちは主に飼われる者、ということを尊重していくときに、入るべき所に入る。


100:4 感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。

100:5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。


「主の門」「大庭」ということばを通して、「門」ということについて学んでいきましょう。


どんな建物も、門がある。


Ex:学校にも門がある。不審者が多いので、普段は閉ざされている。


そして「門」を通らないと、入る所に入らない。


「門」について・・・聖書では「命の門」は「小さい」と言っている。


参照 マタイの福音書7:13‐15

7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。


13節で言われているように、「滅びに至る門」は大きく、「その道」は広い、とある。これって、もし100人クリスチャンがいたら、90人が滅びの門や道に行く、ということを言われているのでは?と思う。


ポイント:私たちは「狭い門」を目指している、ということを覚える。


同じ聖書を読んでいても14節にあるように、「いのちの門」を見出す人は稀。もし、見出したら滅多にないことであり、大変「お得」だと言える。


また、ここで「にせ預言者」が出てくることには意味がある。つまり、「にせ預言者」と「滅びに至る道」は直結している。


ちなみに「にせ預言者」とは・・・KJV訳では、自分では「正しい」と思っている預言者のこと。しかし間違えている預言者のこと。正しい道を伝えることに失敗した預言者のこと。


イエスさまの時代もそうだった。「ゲヘナ」へ導いたのは、律法学者やパリサイ人だった。彼らは、「盲人を手引きする盲人」だとイエスさまから言われた。彼らはみことばに従っていないために真理が見えていなかった。真理に関しての正しい道が開かれていなかった。それゆえに間違えた道しか教えることができなかった。その結果として、以下のみことばが言われている。


参照 マタイの福音書23:15

23:15 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです


にせ預言者の特徴:正しい方向を示せないこと。


これらのことは、私たちの学びのために書かれている。私たちが同じ間違いに入らないため。


今の時代こそ、教会に「にせ預言者」が溢れている。教会ならどこでも良いとは言えない。どんな牧師でも、良いとは言えない。


失敗した教師や伝道者には、よくよく気を付けなさい!と言っている。「永遠の命」を失ったら、悔いても悔い切れないから。


間違えた教師や牧師に気を付けることは、よくよく考える。このことをまじめに考え、理解する。今は間違えた教師や牧師が多いから。


Ex:艱難前携挙説を唱えていたり、黙示録を何も理解していなかったりと、要は基本が分かっていない牧師や教師が多い。


聖書には「滅び」に関して、大きな原因について書いていない。しかし、間違えた教えを聞いて滅びに入る、と言っている。このことに関して冷静に見る。みことばが正しいから。


間違えた教師、牧師はかなり多い。しかしそれに関しては「自己責任」なので、自分で見分ける。それこそ主が、「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」(ルカの福音書12章56節)と言われた通り、自分たちできちんと見分けていくことが大事。


たしかに今は大いに間違えた教師や牧師が溢れている時代である。しかし、自分で見ていかないとダメ!こういうことに関しても、聖書の声に耳を傾けていくことにポイントがある。


ポイント:聖書のことばを知識と知るのは大事。しかし正しく守って「永遠の命」を得るのは、それはまた別のことである。


たとえ聖書のことばを知っていたとしても・・・しかし惑わされることがあるので、よくよく気を付けてきちんと見ていきたい。