詩篇119(4180) 2015.7.12

 

119:41 主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。

 

私たちの歩みの中で、このことを望みたい。

 

119:42 こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。

 

色々な惑わし、非難があっても、主に信頼し、主の声に対応していきたい。

 

119:43 私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。

 

みことばは、すべて純粋であっても・・・しかし、聖書に真理&偽りがある。

 

同じみことばを使って、真理と偽りのぶつかり合いがある。

 

Ex:パリサイ人VSイエスさま

 

偽りを掴まないように、祈っていきたい。

 

119:44 こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。

 

主の御教えを守りたい。

 

119:45 そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。

 

 

119:46 私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう。

 

真理を語るときに、恥を見ることがない。

 

119:47 私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。

 

主の言われたことばを、喜びとしていけると感謝。

 

119:48 私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。

 

みことばを反芻し、思っていくうちに教えられる。

 

みことばに思いを潜めていくときに、大事な事柄が教えられる。

 

そういう習慣を持てると幸い。

 

119:49 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。

 

約束を思い出して、実現してくださる。

 

119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。

 

私たちに与えられたみことばが生かす。

 

奉仕をしていく中で、与えられる。

 

奉仕をしていく中で、エゼキエル書の、「見張り人が角笛を吹かなければならない」ということばが、与えられた。

 

119:51 高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。

119:52 主よ。私は、あなたのとこしえからの定めを思い出し、慰めを得ました。

 

 

119:53 あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、激しい怒りが私を捕えます。

 

主の教えを捨てて、同性愛が正しいなんて言うと、神の激しい怒りが来てしまう。

 

ゆえに、警告は受けていきたい。

 

119:54 あなたのおきては、私の旅の家では、私の歌となりました。

119:55 主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています。

119:56 これこそ、私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。

 

 

119:57 主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。

 

みことばを守っている人に、恵みがある。

 

みことばを守ることにポイントがある。

 

119:58 私は心を尽くして、あなたに請い求めます。どうか、みことばのとおりに、私をあわれんでください。

 

みことばの通りに、主がなしてくださることを求めていく。

 

Ex:「益にしてください」と求めるのは大事。

 

119:59 私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。

 

主が語った方向に歩む人が、恵みを受ける。

 

119:60 私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました。

 

神のおきてをすぐに守ることにポイントがある。時間をかけることにポイントは無い。

 

「すぐに」というのが、聖書的に推奨される態度。

 

急いでためらわずに、仰せを守る人にポイントがある。

 

Ex:ペテロ、ヤコブ、ヨハネ→模範とする態度。

 

みことばを聞いて、すぐに実行する体質になっていく。

 

光がある間に、光を信じる。

 

神からのみことばは、永遠に残らない。

 

このみことばは、結構大事なこと。

 

聖書は、ペテロとかの決断を支持している。

 

119:61 悪者の綱が私に巻き付きましたが、私は、あなたのみおしえを忘れませんでした。

 

みことばが来たからといって、安泰ではない。

 

惑わしがくる。それこそ、エバを騙した蛇のように、「本当に神が言ったのですか?」と。

 

すべての人は、エバのように、試練がある。

 

試練があっても、とどまるのか?が問われる。

 

イエスさまも試練に会った。そして、留まった。ゆえに、私たちも留まる。

 

119:62 真夜中に、私は起きて、あなたの正しいさばきについて感謝します。

 

 

119:63 私は、あなたを恐れるすべての者と、あなたの戒めを守る者とのともがらです。

 

みことばを守る人と、友だちになりたい。

 

119:64 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。あなたのおきてを私に教えてください。

 

 

119:65 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。

 

しもべとして歩むなら、あらゆるみことばが成就。

 

主の恵みが、現実の通りになる。

 

あらゆるみことばが、現実となる。

 

119:66 よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。

 

良い分別と知識を得ていきたい。

 

119:67 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。

 

このことは、71節にもある。

 

ひとつの聖書的なパターン:苦しみを通して、大事なことを学ぶ。苦しみから、迷った道を出て行く。

 

色々なトラブルは、私たちの恵みになる。

 

箴言に、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」ということが書かれている。

 

そんな風に、苦しみは無意味ではなく、学びをするためにある。

 

トラブルを通して、はじめて学ぶことがある。

 

「苦しみ=愛のむち」なので、歩みを速やかに糾す。

 

歩みを変えていくうちに分かってくる。正しい道に入ることにポイントがある。

 

滅びの道を歩み続けるなら、むち打ちは続く。

 

119:68 あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。

 

 

119:69 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。

 

正しい道を歩んでいて、教会へ行っていても、偽りが来たり、影響を及ぼしたりする。

 

でも、戒めを守ることにポイントがある。

 

イエスさまは、律法学者のことを、「蛇よ。まむしのすえ」と言った。

 

安息日に彼らの話を聞き、なおかつ、「自分より倍も悪いゲヘナの子」と呼ばれた人々がいた。

 

集会に行き、地獄へ行く、ということがある。

 

今も、同じ災いがある、という可能性はある。

 

教会を通っても、偽りやインチキが起きることが許されている。でも、みことばを守る人にポイントがある。

 

エバは惑わされた。しかし、惑わされたら自己責任。→天の御国に入れないパターン。

 

119:70 彼らの心は脂肪のように鈍感です。しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。

119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 

 

119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

 

主のことばからの教えは、金銀にまさる。

 

119:73 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。

 

主の手こそが、一人一人のクリスチャン人生を形づくる。

 

主に従うなら、神が望むように形づくられる。主は、「陶器師」とも言われている。

 

従っていく人は、形づくられていく。

 

Ex:ペテロは、はじめはおっちょこちょいとか目立ちたがりのイメージがある。でも、謙虚な人に変わっていった。キリストのことばに率先して、間髪を入れずに従っていったから。

 

主に従っていくときに、悪い部分も変えられる。悟りも与えられる。

 

Ex:7年の契約について、悟った。

 

徐々に、ひとつずつ教えてくださる。

 

119:74 あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。

 

 

119:75 主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。

 

悩みを受けたり、神のさばきを受けたりする。→良い意味でも、悪い意味でも、神は導いておられるから。

 

クリスチャン生活に悩みが来ることがある。

 

その人に大事なことだから、悩ました。

 

たとえ、体に痛みがあっても・・・その人の益になることを、主はなされる。

 

クリスチャン生活は、マラソンレースのようなもの。ゴールを目指して走っている。

 

パウロが、「すでに得たわけではない。」とか「賞を得られるように走りなさい」と言われている通り。

 

私たちが真実に至れるように、神さまは最後まで扱ってくださる。

 

私たちは、どこが狭い道なのか分からない。あるいは、クリスチャンのゴールが見えない。しかし、神はご存知なので、違う道というときに、教えてくださる。そして、主の扱いは真実なので、そこから学ぶ。

 

起きてくるすべてのことに偶然は無い。

 

そういう意味で、神さまの牧会は完璧。

 

119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。

 

 

119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。

119:78 どうか高ぶる者どもが、恥を見ますように。彼らは偽りごとをもって私を曲げたからです。しかし私は、あなたの戒めに思いを潜めます。

 

偽りに入らずに、神のみことばにとどまる。

 

119:79 あなたを恐れる人々と、あなたのさとしを知る者たちが、私のところに帰りますように。

119:80 どうか、私の心が、あなたのおきてのうちに全きものとなりますように。それは、私が恥を見ることのないためです。

 

主のおきてを全き心をもって守る人は、恥を見ることが無い。

 

恥を見たときは、考え直す。神さまが正しいから。