詩篇125篇 2015.9.6

 

都上りの歌

 

 

125:1 主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。

 

聖書の中で、たとえの表現や形容詞が使われている。そういう意味で、聖書は文学的と言える。

 

主に信頼するときに、山のよう。

 

山はゆるぐことがない。

 

ちなみに、「ゆるぐことなく」のところは、KJV訳では「動かされることがない」とある。

 

つまり、山は動かない、移動しない。すなわち不動である。

 

それと同じように、クリスチャン生活も動いてはいけない。地境を移されてはいけない。たとえば、富士山も動いていない。

 

クリスチャン生活も、主に信頼するときに動かない。

 

すべてのクリスチャンが動かないわけではない。けれども動いてしまう人がいる。

Ex:同性愛を受け入れる。

 

けれども主に信頼して求めていくときに、動かないところに置いてもらえる。

 

エレミヤ牧師の証:洗礼を受けた教会はズレていた。そして夏のキャンプへ行ってつまずいてしまった。そのキャンプに参加していた先輩のクリスチャンが、聖書の奇蹟を否定していた。その教会は動いていた。そして祈った。「行くべき教会へ導いてください」と。そうしたらほどなくして、行く教会が示された。そして入るべき信仰に導かれた。根本的なこと、大事なこと、祈りを教えられた。

 

ポイント:主に求めて信頼していったときに不動の道に入り、永遠の道につながる。不安定なところから抜け出して、動かぬところにとどまる。そういう意味で、同性愛を受け入れている教会だと、ぐらついてしまう。

 

125:2 山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。

 

神の民なら主が囲んでくださる。それが守り。

 

たとえば、エレミヤ牧師が散歩して祈っているときに公園があって、そこには20~30cmほどの水位のプールがある。子どもたちが遊んでいるのだが、親御さんが子どもを見守っている。

 

そんな風に、主も私たちを守ってくださる。

 

125:3 悪の杖が正しい者の地所の上にとどまることなく、正しい者が不正なことに、手を伸ばさないためである。

 

主が守ってくださる理由について書かれている。

 

正しいところに留まるときに、悪の杖が留まらない。

 

「杖」は、教師のたとえ。すなわち私たちの歩みを助けるもの。

 

しかしながら、「悪の杖」というのがある。

 

そういう教え、偽りの教えにとどまらないために、正しい人を主は囲んでくださる。

 

正しい人が不正に触れて、おかしなものならないようにしてくださる。

 

また、5節の「不法」は、「不正」のことを言われている。

 

そして、「不正」について正しく理解する。

 

聖書は私たちの信仰の歩みを正しくするためのもの。ゆえにトピックとして、「教理」とか「教え」についてのことを言われている。

 

聖書において、「不正」ということばについて、意味合いとして語っているのは、パリサイ人や律法学者のように、おかしな教理に引っ張っていく、ということを言われている。

 

そして主は、正しい人がおかしな教えに陥らないように、危ないときには注意を与えてくださる。

 

私たちが正しく歩んでいるときに、こういうことを期待して良い。

 

エレミヤ牧師の証:レムナントキリスト教会の初期に、トロントの集会のビデオを作り、警告をするという奉仕をした。そして実際に奉仕した私たちが警告を受けることができた。集会の中で、「獣のしるしをつけろ!」と言っていた。このことは時代を見分けるための良いきっかけとなった。それ以降、そういう集会へは行かなくなった。

 

ポイント:正しく歩むなら、主が私たちに分かるように注意をし、教え、示してくださる。

 

125:4 主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、いつくしみを施してください。

 

たとえ混沌とした時代であっても心をまっすぐにして、主に正しく従っていこうとする人には、主の憐れみが来る。慈しみが与えられる。

 

レムナントキリスト教会も、1タラントであっても主の前に忠実に奉仕をしている。月刊バイブルの配布をはじめ、その他色々な奉仕をしている。そういうことをしているときに、ちょこちょこと慈しみを施してくださる。

 

Ex:教会に少しずつでも人が増える。エノクの七代目に関する啓示が開かれた。エノクは携挙されるクリスチャンの型だという風に理解することができた。教えが来たり、啓示が開かれたり、正しい方向へきている。これは慈しみに入っていたり、慈しみの中を歩んでいると言える。

 

125:5 しかし、主は、曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう。イスラエルの上に平和があるように。

 

主はすべての人に良いことを施すわけではない。

 

たとえば、警視庁で賞をもらう人がいる。一方、悪いことをした人のことは捕まえる。

 

神さまもそう。良いことを誉める。悪いことをした人を捕まえる。

 

「曲がった道」とは、「不正」のことを言われている。このことはパリサイ人のように、曲がった道を語る人に通じる。

 

曲がった道にそれる者どもを不法を行なう者どもとともに、連れ去られよう(KJV):曲がった道を歩む者は、不正な働き人へと導かれる。

 

正しく歩まず、おかしな教理や歩みをしている人は、結果として不正な働き人へと導かれてしまう。「働き人」とは、律法学者や牧師や教師のこと。

 

時々おかしな教会へ入ってしまう人がいる。たとえば統一教会、ものみの塔、キリスト教ではあっても変な教団等。でも、自己責任で入っている。

 

Ex:ブラザレン系の教会で「○復の教会」というところがある。しかしおかしな教会だった。再臨の教理が曲がっていた。他にもおかしな教理があり、なぜこういうことが良いと思うのか、不思議に思った。でも、どこかその人の心に原因があると思われる。神の許しの中でそこに入っている。主がそういった働き人のところへ導いている。神の許しの中で惑わしに入っている。おかしなものが正しいように見えてしまう。高ぶっていたりする可能性がある。主が判断されたらそうなってしまう。ゆえに恐れを持って判断しなければいけない。

 

でも、レムナントキリスト教会においては、例外的に正しい方向が示されているので、そこに留まれるように祈り求めていきたい。

 

ポイント:滅びの道は広いとあるので、大抵の人はおかしなものを掴んでいる。ゆえに命の道に入るのは例外的で稀なこと。レムナントキリスト教会が本当に真理を見ているなら、それは稀であると言える。ゆえに恐れを持つ。そして主が憐れんでくださるなら、真理を見る。