詩篇129篇 2015.10.4

 

都上りの歌。ソロモンによる

 

 

129:1 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。」さあ、イスラエルは言え。

129:2 「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。

129:3 耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」

 

「彼ら」とは、意地悪な人のことのように一見思える。しかし、この箇所も神様の知恵を持って見ていきたい。

 

このことに関しては、3節のことばがヒントとする。

 

「耕す」とか「鋤」は、畑に関することば。一般的には、人の背中に「鋤」を当てるものではない。

 

また、「耕す」とは、麦とかみことばに関するたとえ。みことばを耕す、という意味があり、また、ここには牛とか羊(クリスチャンのたとえ)が書かれていることから、牧会に関するたとえと理解出来る。

 

でも、ここでは牧会が仇になっている、苦しめられている。

 

ゆえにこれらの節で言わんとしていることは、牧会において、耕す者、指導者において災いを受けた、というたとえでは?と思われる。

 

たとえばキリストの真の敵はパリサイ人や律法学者だった。彼らはみことばの種を蒔いた人々。すなわちメッセージを語った。ゆえに畑を耕す者だった。しかしキリストの敵となった。ゆえに1、2節のことばは、キリストに当てはまっている。

 

神の働き人は正しいはず。しかし律法学者たちはキリストと論争した。

 

真に神の働きを担っていくときに、律法学者、教会の指導者が敵となることが現実にあり得る。

 

エレミヤ牧師の証:以前の教会で弟子の歩みをしていた。でも、たとえの意味合いを解き明かしていく中でだんだんと敵が増えていった。池袋に派遣されて集会を行い、メッセージの訓練をしていた。その時に預言者が遣わされて「教会に逆らっている」と言われた。まさにこのことばが成就した。しかしたとえ苦しめられても、御心なら引いてはいけない。やめてはダメ。2節にあるように、苦しめる立場の人たちは勝つことが出来ない。そして正しく留まっていく中で大事な啓示が開かれた。

 

ポイント:御心を行うときに、指導者から苦しめられる。

 

129:4 主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。

 

「綱」について。

 

参照 イザヤ書5:18

5:18 ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、 罪を引き寄せている者たち。

 

「綱」に関して、「罪」や「咎」が関係する。つまり、「綱」で、「罪」や「咎」が絡みついてくる。

 

往々にして惑わしの教えや教理に従うときに、「罪」や「咎」から解放されない。

 

にせ預言者が仇となる。にせ預言者については以下、みことばを参照してください。

 

参照 マタイの福音書7:15

7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

 

にせ預言者の特徴は、良い顔をしてくる。しかしインチキな教えを掴むときに、罪や咎から解放されず、滅びに入っていく。ゆえにそれらを断ち切る。偽りの教えに入っていくと、罪から解放されないから。Ex:艱難前携挙説

 

そして「綱」は、耕す者に関係する。インチキな教理が「綱」となる。主の憐れみを見た人は、断ち切られる。

 

しかし主の前に忠実でない人は引っ掛かったまま。悪者の綱に入ったまま。でも、主の憐れみによってそこから出て行く。

 

129:5 シオンを憎む者はみな、恥を受けて、退け。

129:6 彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。

 

正しい歩みを憎む人は、恥を受ける。

 

正しくみことばに従って歩んで行かないときに、「屋根の草」のようになる。ちなみに屋根の上の草は土が薄いため、すくすく伸びない。

 

インチキな教理に従っていくときに、皆伸びない草になる。伸びないうちに枯れてしまうクリスチャン生活がある。

 

聖書は色々なタイプのクリスチャンについて書いてある。

 

麦の正常な成長は芽が出て、穂の中に実が出て刈り取られる。でも、屋根の草のように途中でポシャってしまって実にならないクリスチャン生活がある。決してこういう所に入ることのないようにする。

 

6、7節はあってはならないこと。こういうクリスチャン生活はNG。

 

エレミヤ牧師の証:行く教会がハッキリしないときに、ジレンマを感じた。その中で、もがいて一生懸命行った。トラクトを配布した。でも、うまくいかなかった。そして切羽詰って弟子の歩みに入った。それから見るべきものを見るようになった。

 

ポイント:「屋根の草」は、人様のことではなく、自分の身に置き換えて考えてみる。

 

129:7 刈り取る者は、そんなものを、つかみはしない。たばねる者も、かかえはしない。

 

「刈り取る」ということばについて。

 

参照 ヨハネの黙示録14:1416

14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。

14:15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」

14:16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。

 

「刈り取る」とは、携挙とか再臨に関することば。

 

聖書の中で、「麦を刈り取る」ということが言われている。「麦」はみことばのたとえ。ゆえにみことばをもって成長するクリスチャンのことをも指す。そして実って「実」が出たら、刈り取られる。

 

私たちは再臨の時に刈り取られてなんぼのもの。携挙されてなんぼである。

 

私たちは主の再臨を目指して歩んでいる。すなわちキリストとの結婚成立を目指している。そのことに関連して、良い麦は倉に納められるが、しかし毒麦は火で焼かれるということが言われている。

 

再び詩篇に戻ります。

 

歩むべき道を歩まずに・・・つまり天の御国ではない方向、すなわち御霊の実を結ばない際に、刈り取ってもらえない。歩み方次第で刈り取られ、けれどもある種のクリスチャンは残されたり、さばきに会う。

 

参照 マルコの福音書4:2629

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

神の国:教会、人:キリスト

 

ここでのポイント:かま→このことばは、黙示録の「かま」を入れることに通じる。

 

ポイント:御霊の実を結ばせる。神は「御霊の実」を結ぶことに注目している。私たちが御霊の実を結ぶかどうかに注目している。

 

実が出来たら刈り取る。逆に実が出ていないクリスチャンは刈り取られない。

 

クリスチャンの大事な部分=御霊の実

 

実が無いと、刈り取られない。ゆえに御霊の実を結ぶことに注目する。

 

129:8 通りがかりの人も、「主の祝福があなたがたにあるように。主の名によってあなたがたを祝福します。」とは言わない。

 

屋根の上の麦には祝福が無い。

 

今回の箇所は、牧会や指導者に関係する。おかしな教理を語る指導者に従うと、ろくでもないことになる。ゆえに働き人は吟味する。悪の綱は断ち切らないとダメ。