詩篇136篇 2015.11.8

 

136:1 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。

136:2 神の神であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

 

真の神であり、私たちを助けてくださるのは神なので、この方に目を向け、心を向けて頼っていきたい。

 

私たちはつい、他のものに目を向けてしまうかも知れない。たとえばキリスト教会の有名な器(働き人、奉仕者)とかに目が留まりやすいかも知れない。たとえばこういうみことばがある。「偶像を造る者はみな、むなしい。」(イザヤ書449節)「偶像を造る者」とあるように、特に器(働き人、奉仕者)のほうで、「自分を偶像にして欲しい。」とか「自分のことを拝んで欲しい」なんていう風に自ら要望しているわけではないのに、私たちのほうで勝手に「器」(働き人、奉仕者)を偶像にしてしまう、ということを言われている。具体的には、聖書のことばと器の言うことがぶつかった場合に、どこまでも器の言うことを尊重してしまうときに、神さまの前に「偶像崇拝」をしている、という風に見なされてしまうので、そのような時には聖書のことばを取っていきたい。そうしていく際に、神さまだけに目を向けている、心を向けている、という風に見なしていただけるのでは?と思う。

 

136:3 主の主であられる方に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

136:4 ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。その恵みはとこしえまで。

 

神は、「不思議」を行うお方。

 

136:5 英知をもって天を造られた方に。その恵みはとこしえまで。

 

「天」とか「地」は、「教会」のたとえ。そしていずれも神さまがお造りになる。そして、「天地」すなわち「教会」は、主の知恵(英知:優れた知恵)をもって造られている。それゆえにたとえ私たちは全体のことを見えないとしても・・・しかし先々のことまでご存知である主の言われたことを行っていくときに、全体(教会)として立派になっていく。ゆえに・・主の言われたことは、どれもこれも快く行っていくようにしていきたい。そして主の知恵に期待して、ひとつひとつのことを行っていきたい。

 

136:6 地を水の上に敷かれた方に。その恵みはとこしえまで。

 

「地」である「教会」も、水(聖霊)の上に建てられている。このことから、「聖霊」が「教会」を建てる、ということを理解出来る。そうです。教会で、「聖霊の一致」があることはとても大事なことだということを言われている。「教会」は、「聖霊」があってなんぼのもの。祈って「聖霊」に触れていればスムーズにいくので、「聖霊」にある歩みをしていきたい!

 

136:7 大いなる光を造られた方に。その恵みはとこしえまで。

136:8 昼を治める太陽を造られた方に。その恵みはとこしえまで。

136:9 夜を治める月と星を造られた方に。その恵みはとこしえまで。

 

「大いなる光」とは、「太陽」のこと。また、イエス・キリストは、「世の光」とも言われている。「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』」(ヨハネの福音書812節)

 

つまりこれは、イエス・キリストを通して真理&歩むべき方向を理解することが出来る、ということを言われている。イエス・キリストを見るときに、真理を見る。そうです。イエス・キリストを光とするときに、すなわちみことば優先するなら、真理&光を見る。ポイントは、イエス・キリストを「光」とすること。

 

136:10 エジプトの初子を打たれた方に。その恵みはとこしえまで。

 

「エジプトの初子を打たれた」ということについて、少し見てみましょう。

 

ところで、エレミヤ牧師は先週(2015年11月の第1週目)、「主の日」と題してメッセージを書き、そのことを「角笛」のHPにアップしました。そして今後の予定として、「エジプトと呼ばれる都」というテーマでメッセージを書いていき、そのことも引き続きHPにアップしたいと思われているそうです。それで・・・その「エジプト」について、ご自身が教えられことを今回お話してくださいました。

 

黙示録に、「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」(ヨハネの黙示録11章8節)ということが書かれている。このことは何を言っているのか?と言うと・・・終末、教会は「ソドム」とか「エジプト」と呼ばれるようになる、ということを言われている。「ソドム」は、創世記を読むとピンと来ると思いますが・・・創世記19章にそのことが書かれていて・・・ソドムに住んでいたアブラハムの甥であるロトのところにふたりの御使いが来た時に、人々がロトの家を取囲み、ロトに向かって、「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(創世記19章5節)と叫んだ。このことばは、今で言えば「同性愛」に通じるのでは?と思う。つまり、教会が「ソドム」のようになるとは・・・教会が「同性愛」や「同性婚」のことを推進したり、受け入れたりする、ということである。さて、それでは、教会が「エジプト」のようになる、ということについても見てみたい。

 

ちなみに出エジプト記の中で、「しるし」とか「不思議」が行われたことについての記述がある。神さまがモーセやアロンを通して、数々のしるしや不思議を行った。しかしそれと共に、エジプトの呪法師たちも同じことをした。そしてこのことはまさに、今の時代において、特にペンテコステ系の教会で起きている「しるし」とか「不思議」に通じるのでは?と思う。一例として、金粉が舞う、歯が金歯になる等、あらゆる形の「しるし」や「不思議」がある。しかし残念ながら、どれもこれも聖霊からのものではなく、悪霊からもの。また、ペンテコステのリバイバル集会を、ペンテコステ系をはじめ、多くの教会が受け入れてきた。ちなみにリバイバル集会も悪霊からのもの。つまりこのように変質されたリバイバル集会が、未来に起きてくることを、出エジプト記において前もって預言されていた。

 

ところで、かつて旧約時代に起きた10の災いの大半のほとんどは、「悪霊」に関するもの。たとえばナイルの水が「血」に変わったとか、「雹」が降って来たとか・・・これらはいずれも「悪霊」に関する災いのことを言われている。昨日まで「聖霊の働き」だったものが、「悪霊」に変わる、ということを言っている。

 

今、ペンテコステカリスマ派が喜んで受け入れているものは、エジプトのもの。つまり悪霊からのもの。人間的には、どんな霊であっても「しるし」や「不思議」が起きればいいのでは?と思いがちかも知れない。しかし、「悪霊」からのものは全てNG。

 

そして最後、「初子が打たれる」という災いが起きた。その時の状況として、主の使いがエジプトを回る。その時、エジプト&イスラエルに区分がなされた。イスラエルには「血」が塗られていたので打たれずに済んだ。しかし、エジプトは「血」が塗られていなかったため、主の使いが入ってきて打たれてしまった。このことを通して学びをしたい。

 

「しるし」や「奇蹟」が起きることは、一見良いことのように思える。しかし悪霊のリバイバル等で、「悪霊」を受けてしまう、という場合に、「初子」が死んでしまう。そして「血」とは、イエス・キリストが十字架で流された「血」、すなわち「贖い」のことを言われているので・・・つまり、聖霊以外の霊、すなわち悪い霊を受けている人は、このこと、「贖い」が通用しなくなる、ということを言っている。許されているはずの罪が、許されていない、ということである。なぜか?と言うと、小羊(イエス・キリスト)の血ではなく、悪霊の血だから。ゆえに・・・こういったリバイバル、すなわち悪霊のリバイバルに関わってしまうという場合に、いつの間にか、「贖い」と無関係になってしまう可能性がある、ということを言われているのでは?と思う。こういったことが、他の箇所にも書かれている。

 

参照 マタイの福音書7:2123

7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』

7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

「奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」とあり・・・しかし、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われている。たとえ「奇蹟」を行っていても、しかし別の霊だとイエスさまから退けられてしまう。

 

そういう意味で、今は大変な時代に来ている。悪霊の奇蹟&不思議の場合に、「贖い」が有効にならず、滅びの使いが現われて打たれてしまう。そうなってしまうと・・・私たちクリスチャンの最も大事なポイントである「贖い」が無効になってしまうので、気を付けていきたい。

 

136:11 主はイスラエルをエジプトの真中から連れ出された。その恵みはとこしえまで。

 

エジプト化した教会がどんどん増えている。しかし御心を行っている人は、連れ出される。過去、エレミヤ牧師はペンテコステ派のリバイバル集会に行っていた。しかしトロントのビデオを観てからは行くことをやめて、それからはそのようなことに関する警告を伝えるようになった。

 

136:12 力強い手と差し伸ばされた腕をもって。その恵みはとこしえまで。

 

このことは素晴らしいこと。

 

136:13 葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで。

136:14 主はイスラエルにその中を通らせられた。その恵みはとこしえまで。

136:15 パロとその軍勢を葦の海に投げ込まれた。その恵みはとこしえまで。

 

「葦の海」のところは、新改訳聖書の注釈には「紅海」とある。「紅海」の「紅」は、「血」の色、ゆえに「悪霊の海」のことを言われている。しかし主は、そこを分けられてイスラエルの民を通らせられた。これはまさに恵みである。たとえばリバイバル集会で変な霊を受けるところ、しかしその害から守られる、ということではないか?と思われる。

 

しかしそんな風に、皆が皆、守られるわけではないように思う。守ってもらえない人は、溺れ死んでしまう。つまり、「悪霊の洪水」で、最後に永遠の命を失う、という結論になってしまうのでは?と思われる。そして変なリバイバルに引っ張られていくことについて、理由があるのでは?と思う。本当に神に従うつもりがあるのか?それとも利得に従うのか?ということを神さまとサタンの両方に私たちは本音を見抜かれている。そしてそれ次第によって、神からのものではない、おかしなリバイバルに引っ張られていくのでは?と思う。

 

このことに関して・・・たとえばエレミヤ牧師がかつて通っていた教会のことですが、その教会の牧師は割と厳しい人だったそうで・・・しかし接していくうちにエレミヤ牧師はその牧師の本音が徐々に分かってきて・・・その牧師は「チョー・ヨンギを超す牧師になりたい」と言っていたらしい。どうも教会を大きくしたい、ということにこだわりがあったようで・・・しかしこれはもしかすると、変なリバイバルを掴むパターンなのでは?と思ったそう。

 

今、サタンが吠えたける獅子のように、クリスチャンを食い尽そうとしている。それゆえに、私たちクリスチャンの本音が出る時なのでは?と思う。

 

136:16 荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。

 

イスラエルの民は、雲の柱&火の柱である主に導かれて、「荒野」へ出て行った。今もこのことが成就する。ちなみにエレミヤ牧師は前に行っていた教会を追い出されてしまった。もちろんこのことには理由があり・・・聖書のことばに忠実に従ったため、その教会を出ることになってしまった。つまりエジプトの教会を出て、「荒野」に出て行った。それで家族四人から集会をスタートさせることとなった。そのことは大いに祝福となり、今でも沢山の恵みを受けている。・・・はじめはやっていけるかどうか、心配だった。でも、大丈夫だった。そして今現在も、雲の柱&火の柱であるイエス・キリストに導いていただいている。

 

136:17 大いなる王たちを打たれた方に。その恵みはとこしえまで。

136:18 主は力ある王たちを、殺された。その恵みはとこしえまで。

136:19 エモリ人の王シホンを殺された。その恵みはとこしえまで。

136:20 バシャンの王オグを殺された。その恵みはとこしえまで。

136:21 主は彼らの地を、相続の地として与えられた。その恵みはとこしえまで。

136:22 主のしもべイスラエルに相続の地として。その恵みはとこしえまで。

 

カナンの王たちについてのことがここに書かれている。イスラエルは「カナン」を目指してそこを占領して住むことになっている。ちなみにカナンの地にはすでに人が住んでいる。しかもその住民は巨人のように見える。しかしこのことは、たとえとして書かれている。要は体格差のことを言われていて、「巨人」とは、「御使い」のたとえと思われる。そして、「御使い」に関して・・・どこかの箇所に、私たちは血肉ではなく、御使いと戦って勝利しないと「約束の地」に入れない、ということを言われている。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ人への手紙6章12節)とある。

 

「約束の地」に入ることに関して・・・色々と惑わしの声が聞こえてきたり、欲を刺激されたりする。けれどもそれらと戦っていく。21節にあるように、正しく戦っていくときに「相続の地」を与えられる。

 

22節「主のしもべイスラエルに相続の地として。」とある。このことは、本来は「御使い」が受け継ぐべきところを、私たちが受け継ぐ、ということを言われている。そして御使いVS人間に関しては、あちこちに書かれている。ちなみに御使いと人間の関係は、兄と弟のようなもの。たとえばヤコブの兄エサウは怒って、ヤコブを殺そうとした。このことは、御使いが怒って、人間を殺そうとするたとえ。そして御使いは本気なので、私たちも本気で向かう。

 

たとえば、サウルも御使いの型。そして御使いは、なぜ御国を継ぐことが出来なかったのか?と言うと・・・「長子の特権」を馬鹿にしたから。恐らくはじめに相続の話は御使いに行ったのではないか?と思う。しかし、馬鹿にしたのでは?と思われる。ちなみにサウル(御使いの型)は、神のことばを守らなかった。聖絶すべきものをしなかったし、捧げるべきものを捧げなかった。このことから、ダビデ&サウルも、人&御使いの型なのでは?と言える。そしてダビデは天の御国を継いだ。それゆえに、もし私たちもダビデのように御国を受け継ぎたいのなら、御心を行っていく。その際、サウル(御使い)がダビデ(人)を執拗に追いかける、という点は正しく捉え、そこから学びをする。

 

このことに関して、女性のケースもある。ワシュティ&エステルがそうだと言える。ワシュティは王の言うことを聞かず、応じなかった。ゆえに永遠の命を失ったパターン。たとえば、牧師がお願いすることを「やりたくありません。」なんていう風に断ったりしたのでは?と思う。一方、エステルはモルデカイや宦官ヘガイの言うことを素直に聞き、忠実に守り、行って天の御国に入ったパターン。ちなみにモルデカイや宦官ヘガイは「聖霊」の型だと、レムナントキリスト教会では理解している。

 

これらのケースを通して・・・なぜ、御使いは天の御国や永遠の命を失ったのか?ということを私たちは学んでいく。私たちはある意味、「永遠の命」を得るべき戦いをしている。また、午前の礼拝の黙示録3章でも学びをしたように・・・フィラデルフィヤの教会の人たちのように「冠(永遠の命)」を堅く持っているクリスチャンは、狙われている。そして、敵は最後の最後までしつこいので、油断しないようにする。まさに、「選民をも惑わそうとして~」ということが福音書には書かれているので・・・最後まで、「冠(永遠の命)」堅く守っていきたい!

 

136:23 主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。

136:24 主は私たちを敵から救い出された。その恵みはとこしえまで。

136:25 主はすべての肉なる者に食物を与えられる。その恵みはとこしえまで。

136:26 天の神に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。

 

「約束の相続の地」(永遠の命)に関して、御使いが間違えた点を見習ってはダメ。聖書には書かれていませんが、しかし日本の諺に「人のふり見て、我がふり直せ」ということも一面言われているので・・・失敗したパターンを見て、そこから必要な学びをして同じ轍を踏まないように気を付けていきたい。

 

実際に・・・サタンと同じような過ちに入っているクリスチャンは案外多いのでは?と思う。また、みことばに不忠実なのもダメ。半分はやる、しかしもう半分はやらない、というのもNG。ゆえに、やるべきことをきちんと行って、「約束の相続の地(天の御国、永遠の命)」をゲットしていきたい!