詩篇137篇 2015.11.15

 

137:1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。

 

この篇では、南のユダの人々がバビロンに捕囚されている場面について言われている。本来、居るべき所ではない場所にいる。すなわち先祖たちの地から離れて、別の場所に連れて行かれている、という背景。そして実際にバビロン捕囚は、旧約時代に起きた。北イスラエルの民が先ず、アッシリヤに捕囚された。次に、神に愛された南のユダの民がバビロンに捕囚された。そのような流れを掴んでおく。しかもこのことは、まさに今の終末の時代にも同じことが再現している。

 

カトリック(旧約で言う北イスラエル)も、おかしな教理に捕囚されている。たとえば、「聖書に誤りがある」とか「マリヤに祈る」ということをローマ・カトリック教会では推進している。

 

旧約時代の南のユダがバビロンへ捕囚されたように・・・新約時代のプロテスタント(旧約で言う南のユダ)も同じく捕囚されている。このことは黙示録で再現している。たとえば黙示録には、「淫婦バビロン」をはじめ、「バビロン」ということばが度々出てくる。このことから、つまり、新約のプロテスタントもバビロン捕囚されている、ということが理解出来る。

 

聖書は前もって、このようなことを預言している。そういうことを前提に読んでいくときに、「バビロン捕囚」とは何か?について理解出来る。そして過去(旧約時代)を振り返って、未来(新約時代)を見る。それゆえに、「旧約聖書を読むことに意味が無い」というのは間違いであり・・・逆に、旧約聖書を一生懸命読む人は、新約時代のことを理解する。

 

それでは、「バビロン」について少しずつ見ていきたい。

 

ところでダニエル書にも、「バビロン」のことが出てくる。そして「バビロン」とは、どんな国なのか?と言うと、ダニエルを獅子のいる穴に投げ込んだり、また、シャデラク、メシャコ、アベデ・ネゴを火の炉に投げ込んだり、と、悪いことをする国である、ということが理解出来る。ちなみに「バビロン」のことばの由来というのは、「バベル」のことばから来ている。せっかくなので、「バベル」について見てみましょう。

 

参照 創世記11:1,79

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。

11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」

11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

1節にあるように、昔、言語はひとつだった。しかし、その後、主が混乱させた。ゆえに、「バベル」とは、「混乱」という意味。つまり、「バビロン」には、こういうことば(混乱したことば)がある。

 

1節の原語の意味について→「一つの唇」「一つの話ことば」(原語):一つのことば

 

そして、バベルの塔の話のように・・・あらゆる聖書で起きてくる事件は、それぞれのクリスチャンの信仰に関わってくること。つまり、聖書のことばの解釈について言われている。ゆえに聖書の理解とか、解釈のことという風に理解する。

 

元々聖書のことばに関して・・・一つのことばについて、一つしか無い。同じことを皆、話している。恐らく初代教会時代の教会は、そうだったのではないか?と思われる。

 

しかし、バベル、すなわち混乱が起きて、あらゆる外国語が出来た。しかもそれだけではなく・・・一つの解釈のはずなのに、色々な解釈が出てくる、ということをこの箇所では暗示している。

 

ところで英語では、神のことばに関しては、複数ではなく、単数、“word”がどこでも出てくる。ゆえに一つのことば、一つの解釈だということが理解出来る。しかし、バビロンによって、あらゆる混乱や解釈が出てきた。ちなみにレムナントキリスト教会では、「バビロン」のことは、「アメリカ」だと理解している。そしてアメリカの教理がまさに混乱に満ちている。艱難前携挙説をはじめ、他のことに関しても色々な解釈があり、結局何が真理だか分からなくなっている。訳の分からないことになっている。神学校もしかり。あの解釈がある、この解釈がある、と言っている。しかし実際には、神の唇なので、メッセージは一つである。

 

エレミヤ牧師の証:私は一つの解釈しか言いません。たとえば、ラオデキヤの教会に関しても、いくつものことは言いません。「さばきに会う教会」だと、ひとつのことを打ち出しています。また、エジプトに関しては、贖いが消え失せる、ということだけを言っています。そんな風にポイントは、いくつものことを言わないことです。一つの神のことばに対して、ひとつのメッセージしかしません。

 

今、アメリカが災いになっている。アメリカのキリスト教会は、バビロンだから。ゆえにアメリカの教理を受け入れる人は、混乱していく。つまり、アメリカ由来の教理は混乱を招くものだと言える。そして教理だけではなく、「霊」についても気を付ける。色々と吟味することが大事。ちなみに色々なことを言う解釈は、何ももたらさない。

 

それどころか、バビロンは捕囚の地であるので・・・「約束の地」から引き抜かれてしまう。つまり、「約束の地」に入らない。アメリカ由来の危険な教理の一例を挙げると・・・再臨(主の日)は、聖書では背信のクリスチャンにとってはさばきの時となる、ということを語っているのですが、しかし、キリストの再臨の時は、全てのクリスチャンにとってハッピーな時だと言っている。また、悪霊を下すリバイバル集会や艱難前携挙説を奨励している。しかし、これらのものは、アメリカ由来のものなので・・・すなわちバビロン由来のものなので、ぜひ、気を付けていきたい。

 

137:2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。

137:3 それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。

 

神の民、ユダは捕らえ移された。このことはつまり、私たちがバビロンに捕囚されるのは、災いであり、入るべき地に入れない、また、教理がおかしくなる、ということを言われている。ゆえに、アメリカのあらゆるおかしな教理から解放されて出るのが正しい。あらゆる意味で、バビロン由来のものは、真理から離れてしまう。でも、戻るなら真理を見る。一例として・・・聖書の中でイエスさまは、「たとえの意味合い」を理解することを奨励しているのですが・・・しかし、バビロンの教理は、「たとえの意味合い」を理解しない。

 

でも、エレミヤ牧師は、それは間違いであると思い、たとえの意味合いについて主に尋ね求めていくようにした。そうしたところ、最近は「エジプトの災い」に関しての真理を悟った。バビロンの教理や神学を受け取らず、聖書のことばを理解していく中で真理を見た。そしてバビロンに捕囚されたままだと、「約束の地」に入らないので、そこから出て行かなければならないことを悟った。そんな風に・・・レムナントキリスト教会はバビロンから逃れることが出来た。そうです。バビロンは混乱しており、真理から離れている。バビロンに関して・・・バビロンはあらゆることが微妙にズレている。そしてあらゆるインチキがあるので、捕囚されたら永遠の命を失う。ゆえにバビロンの謎はきちんと解かないとダメ。(一例:淫婦バビロン)そうでないと、アメリカへの警告が見えなくなるから。

 

137:4 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。

137:5 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。

137:6 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。

 

「エルサレム」のことばの意味合いについて→「エル」の原語は、「教え」という意味。「サレム」の原語は、「平安」という意味。つまり、「エルサレム」とは、「平安の教え」という意味合いである。そして、「平安」は大事なこと。かつてイエスが12弟子たちを遣わしたときに、「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。」(マタイの福音書10章12,13節)と言われた。

 

そして、「平安」とは、「御霊」のことをも言われている。そのことから、「エルサレム」とは、「御霊の教え」という意味になる。これはつまり、聖霊の教えを忘れたらダメですよ~、ということを言われている。聖霊がどのように教えるか?について、心を留めていくことは大事。

 

エレミヤ牧師の証:メッセージをする前に祈る。そうすると、大事なポイントを教えてもらえる。聖霊を崇めていくときに、思いもよらないことを教えてもらえる。こういった体験を通して・・・聖霊の喜びを求めていく人は、ベストな教えや解決が与えられる、ということが言える。

 

137:7 主よ。エルサレムの日に、「破壊せよ、破壊せよ、その基までも。」と言ったエドムの子らを思い出してください。

 

エルサレムとか、聖霊や働きを破壊したらダメ。

 

137:8 バビロンの娘よ。荒れ果てた者よ。おまえの私たちへの仕打ちを、おまえに仕返しする人は、なんと幸いなことよ。

137:9 おまえの子どもたちを捕え、岩に打ちつける人は、なんと幸いなことよ。

 

バビロンの娘や働きは、主の御心とズレている。そういうことに関しても・・・「しかりは、しかり」、「否は否」とする。そしてバビロン由来のものに問題があるので、ここに集中する。たとえば「アメリカは聖書に出てこない」という教理がある。しかし、アメリカこそが獣の国だということを言っていくのが正しい。アメリカの教理や霊は、背教だということを見据えて建て直しや回復の働きを行っていく。