詩篇141篇 2015.12.13

 

 

 

※今回の141篇の主旨は、前篇(140篇)と同様、みことばを扱う不法な働き人から守られるように、というメッセージです。「落とし穴」や「わな」とか、似たようなトピックについて語られています。今のキリスト教会の偽りの教理を語る働き人や間違えた教理のわなから守られるように、ということを141篇全体は語られています。

 

 

 

ダビデの賛歌

 

141:1 主よ。私はあなたを呼び求めます。私のところに急いでください。私があなたに呼ばわるとき、私の声を聞いてください。

 

141:2 私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。

 

 

 

主の前に声をあげる時、聞いてもらうことが出来るように、祈りが用いられるように、祈り求めていく。祈りが聞かれるように、信じて祈る。祈って叶えられるように、と思って祈る。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:最近、娘家族のことで祈った。そして祈りが答えられるように信じた。

 

 

 

141:3 主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。

 

 

 

私たちのことばが守られることが大事。

 

 

 

141:4 私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもとともに、悪い行ないに携わらないようにしてください。私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。

 

 

 

「不法を行なう者」とは、律法から外れたことを言う人のこと。たとえば、「同性愛が正しい」と語る働き人がそう。キリスト教会における過ち&失敗&惑わしについてここでは述べている。今の時代、残念ながら、キリスト教会は油断も隙も無い。一見、正しいことに見えて、変な教えやわなに入る場合がある。

 

 

 

「私が彼らのうまい物を食べないようにしてください。」のことばに、ひとつの語りかけがある。このことは、「おかしな教理に気を付けましょう!」ということを言われている。「うまい物」が「わな」となるパターンがある。このことは、料理のことではなく、教理や教えのことを言われている。つまり、「うまい食べ物」とは、「滅びの教え」のことを言われている。それは一見魅力的に思えるかも知れない。しかし、こういうものが「わな」となるので注意する。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:今までいくつかの変な教理に引っ掛かった。たとえば「艱難前携挙説」もそうだった。これは、ブラザレン系のJ..ダービーの間違いのひとつ。けれどもかつてブラザレン系の教会に通っていた時には、彼のことを尊敬していた。洋書店にまでわざわざ本を買いに行ったこともある。そして彼が書いたものを全集読むことにした。そうしたら書店の人に、「海外から取り寄せるといいですよ~。そのほうが安いですから。」なんていうアドバイスまでもらったので、そうすることにした。そして、彼が書いたものには「うまい教え」があった。たとえば、黙示録に「フィラデルフィヤの教会」のことが書いてあって、ダービーは、「自分たちこそフィラデルフィヤ」だと語っていた。その根拠は・・・「フィラデルフィヤ」とは「兄弟愛」のことを言われている、ということだった。「ブラザレン」とは、まさに「兄弟」のことを言われているから。名前の通り、「兄弟を愛する。」という正しい真理に入っている、という素晴らしい教えだと思った。また、黙示録に「ニコライ派」のことが出てくる。ちなみに、「ニコライ」の「ニコ」は「一般」という意味がある。「ライ」とは「勝つ」という意味である。そしてブラザレン系の教会は、このことばを文字通りに信じているためなのか、牧師等の中間祭司職を排除し、兄弟しかいない(勿論女性の信者はおりました。)、という素晴らしい真理がある教会だということを言われていて・・・無論それは実際には違っているのですが・・・しかし、それでその時はインチキに引っ掛かってしまった。でも、おかげさまで今は、そのことは全く間違えていると思う。艱難前携挙説や中間祭司職を排除することをはじめ、色々と間違いがあることに気付いた。ただ、このことを通して言いたいことは・・・そんな風に「うまい物」が「わな」になる、ということがある。でも、それはブラザレン系の教会だけではなく、他にもある。たとえば、ものみの塔や統一教会とかもそう。一見良いものが「わな」になっていく、ということがある。でも、主の憐れみによって徐々に正しい教会に導かれるようになった。

 

 

 

ポイント:「うまい教え」には注意する。

 

 

 

141:5 正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。

 

 

 

「正しい者が愛情をもって私を打ち、」とあるように、クリスチャン生活の中で、困難や艱難に会うことがある。場合によっては、霊的なトラブルが許されてしまう、ということもあるかも知れない。でも、それも主の配慮だということは理解する。

 

 

 

たとえば、昨日弟子の歩みで学びをしたように、主は敵の住民をカナンの地に残しておいた。そういう意味で、何のトラブルも無いクリスチャン生活ではない。しかし主を頼っていくときに助けられる。神さまは、私たちの歩みが違う時に、打ったり、厳しい鞭を打つ。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:かつて通っていた教会には神学校が併設されていて、そこでエレミヤ牧師も弟子の訓練をしていた。その中で、メッセージの訓練もあり・・・メッセージの当番の時には色々とひどいことを言われた。その時、悔しい思いをしたりもしたが・・・けれども、ある意味それは神さまからの鞭打ちだったのでは?と思う。そしてそのことが、今は大いに益になっている。

 

 

 

「頭にそそがれる油」とは、聖霊の戒め&訓練のこと。そして、正しい者が愛情をもって私たちを打っている。

 

 

 

141:6 彼らのさばきづかさらが岩のかたわらに投げ落とされたとき、彼らは私のいかにも喜ばしいことばを聞くことでしょう。

 

 

 

「岩」とは、「弟子の歩み」のこと。弟子の歩みをしていくときに、「私(キリスト)」「喜ばしいことば」を聞くことが出来る。でも、群衆の歩みだと、キリストの声は聞こえてこない。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:群衆の歩みの時には、神さまの声はあまり聞こえてこなかった。でも、弟子の歩みをしていく中で、聞こえるようになった。ちなみにレムナントキリスト教会は、神の声を聞いて働きを進めている。その都度、主が大事なことを語ってくださる。また、以前通っていた教会を追い出されて、自分で教会を立ち上げてから、主の声をさらに聞けるようになった。たとえば、月刊バイブルの働きもそう。機会があるごとに、知り合いの人に渡している。月刊バイブルの中に色々とコンテンツがあり、それも全て主の声を聞いて行っていった。そして今もなお、継続して発行している。

 

 

 

141:7 人が地を掘り起こして砕くときのように、私たちの骨はよみの入口にまき散らされました。

 

141:8 私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。

 

 

 

「私たちの骨はよみの入口にまき散らされました。」とあるように、こういう時がある。でも、主に身を避けて、守られるように、祈り求めていきたい。

 

 

 

141:9 どうか、彼らが私に仕掛けたわなから、不法を行なう者の落とし穴から、私を守ってください。

 

141:10 私が通り過ぎるそのときに、悪者はおのれ自身の網に落ち込みますように。

 

 

 

前篇(140篇)と同様、ここでも、「穴」とか「わな」について書かれている。このことは、今の時代の私たちへの警告でもある。キリスト教会は「わな」や「落とし穴」が大いに用意されているのでは?思う。

 

 

 

たとえばアメリカでは、キリスト教会やクリスチャンにアンケートを行ったという話がある。その中で、尊敬する政治家は?という質問があり・・・大多数の人が「ネタニヤフ」(イスラエル人)と回答したらしい。そういう人がクリスチャンの間で尊敬されているらしい。それは恐らく、牧師の語るメッセージに一面影響されているのでは?と思う。また、レフトビハインドが終末のことだという風に勘違いしているクリスチャンが多い。また、戦争を推進する方向にも行っている。それは作られたおかしな教理に引掛けられているのでは?と言える。ちなみにレフトビハインドは、「取り残される」ということを語っていて、それは恐怖を煽った教理である。そういう理由からか、艱難前携挙説が広がっている。でも、主が目を開いてくださるなら、わな&落とし穴から逃れることが出来る。

 

 

 

幸い、レムナントキリスト教会は、アメリカのわなから逃れている。そして「仮庵の祭り」を行っている。そういう意味で、我々はわなから抜けている。しかし逆に、「わな」に落ち込んでいる人が多いのでは?と思う。網もわなも落とし穴も仕掛けられる。しかしそこから抜けられるように祈り求める。レムナントキリスト教会は主の憐れみで、わなから免れている。