詩篇142篇 2015.12.20

 

 

 

ダビデのマスキール。彼が洞窟にいたときに。祈り

 

 

 

「洞窟にいたときに。」ということを見ていきたい。

 

 

 

参照 Ⅰサムエル記24:13

 

24:1 サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。

 

24:2 そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。

 

24:3 彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。

 

 

 

「サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。」とあるように、サウルとダビデが急接近した。この時、ダビデはサウルを殺すことも出来た。しかし、上着のすそを切り取った。そして、サウルは泣いて悔い改めた。しかし、又、追いかけた。つまり、サウルはダビデを迫害した。そして、新約聖書にも迫害者が登場する。それは、サウロ。のちに「パウロ」になった。名前が変わる前と後では、やっていることが違う。

 

 

 

そして、サウル=サウロ。二人ともベニヤミン人。そういう意味では共通点がある。しかもサウロという名前の時は迫害者だった。パウロの時代は使徒だった。

 

 

 

サウル王は、迫害者。そしてダビデがサウルに追いかけられて、あちこち逃げているのは艱難時代の型。イエスさまもそうだった。ゆえにダビデから学びを受ける。ダビデは間一髪というところを通っている。こういう日、すなわち艱難時代が来るのでは?と思う。そして艱難はたしかにある。しかし、奇蹟的に神さまは助けてくださる、という面も聖書では語っている。

 

 

 

ダニエル書もそう。主が啓示を危機一髪の時にダニエルに与えてくださり、皆が助けられた。また、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、「火の炉」に投げ入れられた。しかし、奇跡的に助けられた。艱難時代、殉教者がいる。危機は通る。でも、助けられる。ダビデは絶体絶命のところを通った。でも、助けられた、というのが、ここでのメッセージ。ゆえに艱難前携挙説は間違いであることが理解出来る。

 

 

 

142:1 私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。

 

142:2 私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。

 

 

 

ここで、ダビデの心境が書かれている。3千人の精鋭を引き連れて、ダビデを殺そうとしている。でも、この時、「私は主に向かい~言い表わします。」という風に祈りを捧げている。これは良いこと。艱難に会った時に、このように祈っていく。ダビデは奇跡的な生き方をした。間一髪だった。しかし、奇蹟の裏には、声をあげて叫ぶ祈りがある。

 

 

 

参照 へブル人への手紙5:7

 

5:7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

 

 

 

「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあるように、叫び&嘆きをもって祈って祈りが聞かれた。ゲッセマネの園でのお祈りもまさにそう。イエスさまは、血と汗の祈りを捧げた。ゆえに、叫び&嘆きの祈りは、結構聞かれるのでは?と思う。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:洗礼を受けた教会で、真剣に祈った。それは通っている教会に疑問が浮上したためであった。それで良い教会に行くことが出来るように祈った。そのことに関して道が開かれるように祈ったところ、聞かれた。ある時、ノンクリスチャンの友人から英会話のチラシをもらった。見てみたら、それは教会だった。当時、英会話にはあまり興味が無かったが、しかし教会だったので行ってみたら、実際に良い所だった。そんな感じに・・・ノンクリスチャンを通して、教会を紹介してもらうことが出来た。こんな風に・・・祈り、というのは答えられる、ということを実感した。ゆえに声を挙げて、求めていきたい。

 

 

 

142:3 私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。

 

 

 

「わな」を仕掛けることがある。世の中が益々悪くなっていく中で、正しく歩んでいこうとするときに、しかもその裏には「サタン」がいて、正しいクリスチャンを憎んでいる。それは、クリスチャンが「永遠の命」を得る、ということをサタンは知っているから。ゆえにクリスチャンに、「わな」が仕掛けられる。

 

 

 

たとえば、アメリカでは同性愛をきっかけに、クリスチャンを逮捕している。また、変な法律を下に、路傍伝道&トラクトの配布をしているクリスチャンを逮捕している。つまり、正しいクリスチャンを引っ掛けて、恐れさせ、脅かして、信仰を無くさせる。そして、いずれ日本もそうなっていくと思われる。東京都の一部の区では、同性愛を条例で認めた場合、異を唱える人を訴えるという議案が上がっているそう。

 

 

 

みことばは大事にしたい。しかし一方、蛇のようにさとく、鳩のように素直でいることにポイントがある。「わな」を仕掛けてくる人が出てくるから。最近、イスラム教徒を悪く言うわながある。そしてやがてクリスチャンもそうなるのでは?と思われる。インチキがまかり通っているから。たとえば、原発に関して、全て再稼動。しかも他の国にも原発を販売するという計画もあるとのこと。でも、そういう中でも、正しく御心を行っていきたい。

 

 

 

142:4 私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。

 

 

 

だんだん、世の中が悪くなると、正しいクリスチャンへの同情が無くなっていく。たとえば、アメリカのトランプ氏は、「イスラム教徒は悪いので、アメリカに入らせないようにしよう!」ということを言っているらしいが、米国で彼は人気を博しているそう。本当は、テロは行っていないのに、悪い噂を流している。けれども、たとえ嘘であっても・・・悪い印象は広がってしまう。今はイスラム教徒がターゲットになっているが、でも、その矛先はクリスチャンに向けられつつある。

 

 

 

まさに、法律を下に逮捕、というのがそうなのでは?と思う。みことばに従ったために、法律を犯すこととなり、逮捕された際に、周囲の人たちからは、「自業自得」とか「当然の罰」なんていう風に正しいクリスチャンは扱われる。この世の論調や風向きは変わる。正しくても、「悪い者」とされる。そして、そういうことを覚悟する。

 

 

 

イエスさまもカルト扱いされ、逮捕された。「あいつは過激だから、あんな奴はダメだ。」と。でも、イエスさまがそうであったように、主のことを一番にする。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:前の教会でカルト扱いされ、シカトされた。誰も話しかけてきてくれなかった。でも、良い経験になった。そういう中でも、主の御心を行っていくか?ということが問われたように思う。その後、主の恵み&働きに入っていった。

 

 

 

ポイント:あらゆるものを失ってもどうなのか?ということが問われる。

 

 

 

142:5 主よ。私はあなたに叫んで、言いました。「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。

 

 

 

問題や悩みがあっても、また、命を狙う人がいても、このように祈る。ちなみに「避け所」とは、「防空壕」のような所。私たちが逃げる所でもある。

 

 

 

主を「避け所」として、唯一の自分の領土だと思って求めていくときに、ダビデのように、自分の命を救う。神の奇蹟を見る。たとえ誰も顧みてくれる人がいなくても、神が「避け所」となってくださる。ゆえにダビデのように祈る。そうするなら、奇蹟的な助けを得る。

 

 

 

たとえば、ペテロが牢に入れられて、鎖につながれていたときに、御使いが助けてくれた。ゆえに問題の中で、主に助けを求めていく。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:主が時に応じて、祈りに答えてくださり、助けてくださった。自分の力の及ばないことがあったので、そのためによく祈った。某コンピューター会社に勤務していたときに、商品を無事出荷する業務に携わっていた。海外とやりとりをしていて、「先方から合格をもらえるように。認定マークをいただけますように。」と度々祈った。そうすると、答えられて、助けられた。また、職場を解雇させられそうな時も守られた。契約社員だったので、正社員を優先する、という話がある時持ち上がった。同じ立場の人が自分(エレミヤ牧師)を含めて三人いて、まず、二人が解雇されて、自分だけが残ることになり、2ヶ月ほど引継ぎをした。その後、正社員がやることになった。そして、ダビデのように祈った。「もし、このまま仕事が無くなるのでしたらそのままに・・・でも、守ってくださるのなら、続けられますように。」と。それから、引き継いだ人たちがやり出したのだが・・・しかし、その途端に認定マークが下りなくなった。しかもいつまでたっても、取れなかった。そうこうしているうちに、上司の考えが変わった。そして自分(エレミヤ牧師)に再び仕事が回ってくることとなり、そうしたら、スムーズに認定マークが下りるようになった。このことを通して、祈りは聞かれる、と思った。ゆえにトラブルがあったときには、主の前に祈っていきたい。

 

 

 

142:6 私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。

 

142:7 私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。」

 

 

 

6節で言われているのは、艱難時代のことと思われる。「私を迫害する者から救い出してください。」とあるが、艱難時代の備えとしての祈りだと思われる。こんな風に、これから起きることも含めて、すべてのことは前もって聖書に書かれている。これから教会の背教が益々進み、サタンが惑わしを入れてくる。でも、主がもっとも大事な啓示を開き、教えてくださるので、こういったことをとらえて歩んでいきたい。