詩篇146篇 2016.1.17

 

 

 

146:1 ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。

 

146:2 私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。

 

 

 

主をほめたたえていくことにポイントがある。

 

 

 

聖霊にあって、主のなしていることを正しく見るなら、主をたたえる気持ちになれるのでは?と思う。

 

 

 

146:3 君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。

 

146:4 その息が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。

 

 

 

「君主」は、人のこと。そして、キリスト教会の大きな器のことを指す。たとえば、ローマ法皇やリック・ウォレン等。

 

 

 

しかし、器に頼ってはダメ。器を尊敬するのはOK。でも、神さまよりも頼ってはダメ。このことは、信仰の根幹に関わることだから。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:10代にクリスチャンになった。そこには尊敬出来る牧師がいて、(エレミヤ牧師は)そこで奉仕もしていた。熱心な牧師だった。そして、(エレミヤ牧師は)牧師を頼っていた。頭では神のみを頼ることを理解していたが・・・実質は、そうではなかった。早天で、牧師が祈っていたので、自分(エレミヤ牧師)もそうしていた。牧師は忠実に毎日祈っていた。けれども、ある時、行き詰ってしまった。そこの教会では、「人前で罪を告白しないと許されません。」ということを言われていた。でも、それは自分(エレミヤ牧師)にとって、苦痛だった。また、「きよめ」という教理があり・・・それは「救い」のさらに上をいく、というもので・・・しかもそれは「完全なきよめ」と呼ばれるものだった。でも、結局それには到達せずに、挫折してしまった。そして、牧師の言う通りにしていたら、おかしくなってしまった。それは、このみことばの通りだと思った。人はどんなに立派でも、けれども、それは、それだと思った。人を頼った歩みは、どこかで限界が来ることを理解した。人を頼ったり、神の位置に置くと、ろくでもないことになってしまうことを悟った。それ以来、自分(エレミヤ牧師)は、人離れするようになり、神に頼るようになった。たしかに立派な人は沢山いる。でも、本質的な福音は神にある。ここに書かれているように、「人」は生きている間だけで、死んだら「土」に帰る。まさに、みことばの通りだと思う。

 

 

 

ポイント:人&神は、対称をなす。ゆえに、神に助けを求める。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:その教会を出て、神に頼ることを学んだ。もし、そのまま続けたら、あるべき所に入らなかった可能性がある。

 

 

 

神のみに、望みを置く人は、栄光を見たり、恵みに入る。

 

 

 

146:5 幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。

 

146:6 主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り、

 

 

 

「天」「地」は、「教会」のたとえ。

 

 

 

「主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。」と書かれているように、すべてのクリスチャンがそこで神によって造られた。誰もが、神によって救われ、建て上げられる。

 

 

 

146:7 しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。

 

 

 

「しいたげられる者のためにさばきを行ない、」と書かれているように、理不尽な目に会ったとしても、自分で復讐する必要は無い。

 

 

 

「飢えた者にパンを与える方。」と書かれているように、神に真に求めていくときに、パン(みことば)が与えられる。

 

 

 

146:8 主は盲人の目をあけ、主はかがんでいる者を起こされる。主は正しい者を愛し、

 

 

 

盲人であっても、正しく主に着いていくなら、目が開けられる。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:ある時から、正しく主に聞くようになって、見えるようになった。たとえば、エステル記のことを理解出来るようになった。正しいクリスチャンを虐殺する日が来ることを悟った。でも、最後の最後で逆転すること、そしてそれが、のちに再現することを理解した。

 

 

 

主にあるときに、大事なことが見えてくる。

 

 

 

146:9 主は在留異国人を守り、みなしごとやもめをささえられる。しかし主は悪者の道を曲げられる。

 

146:10 主は、とこしえまでも統べ治められる。シオンよ。あなたの神は代々にいます。ハレルヤ。

 

 

 

「在留異国人」とは、ある種の人々のことを言われている。主に従ったため、異国人として嫌われるクリスチャンのこと。キリストがそうだった。

 

 

 

「みなしご」とは、地上に父がいない。しかし、天に真の父がいるクリスチャンのこと。

 

 

 

「やもめ」とは、地上に夫がいない。しかし、天に真の夫がいるクリスチャンのこと。

 

 

 

主は、そういう人を支えられる。助けられる。しかし、正しく歩まない人は、曲がった道を歩む。パリサイ人や律法学者がそうだった。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:みことばに従ったために、クリスチャンの間で非難を受ける、ということは真実だと思った。私(エレミヤ牧師)は、主に正しく従ったために、教会を追い出された。でも、主が守ってくださり、信仰を守ることが出来た。