詩篇150篇 2016.2.14

 

 

 

150:1 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。

 

 

 

主は、褒め称えるにふさわしいお方。

 

 

 

聖所:日本の神社もそうですが、一般の人は入れない所。しかし、大庭は入れる。

 

 

 

聖書においてもそんな感じで・・・「聖所」に入れるのは、レビ人だけ。そして、神を褒め称える。

 

 

 

ちなみに「レビ人」とは、主につく弟子の型。つまり、弟子たちが神に仕える。聖所で主に仕えることが出来る。

 

 

 

「聖所」の規定について。

 

 

 

参照 レビ記7:1921

 

7:19 また、何であろうと汚れた物に触れたなら、その肉は、食べてはならない。それは火で焼かなければならない。その他の肉ならば、きよい者はだれでもその肉を食べることができる。

 

7:20 人がその身の汚れがあるのに、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。

 

7:21 また、人が、何であろうと汚れた物に、すなわち人の汚れ、あるいは汚れた動物、あるいはすべて汚れた忌むべき物に触れていながら、主への和解のいけにえの肉を食べるなら、その者はその民から断ち切られる。」

 

 

 

「聖所」とは、「きよい場所」のこと。「きよい」とは、汚れたものから分離する、という意味がある。

 

 

 

神に仕える、というときに、分離することに注意を払う。

 

 

 

この世の汚れがくっついたままで、なおかつ神に仕えている、というのはNG。

 

 

 

神が「汚れている」と判断しているものからは、離れる。

 

 

 

ポイント:神に仕えていくなら、分離する。

 

 

 

150:2 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。

 

 

 

「大能のみわざ」について。

 

 

 

参照 詩篇20:68

 

20:6 今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。

 

20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

 

20:8 彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

 

 

 

右の手の救いの力大能のみわざ

 

 

 

「主は、油をそそがれた者を、お救いになる。」とあるように、聖霊の油注ぎを受けているなら、救われる。

 

 

 

ダビデも助けられた。

 

 

 

ポイント:「主の御名」に救いがある。

 

 

 

150:3 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。

 

 

 

楽器を使って、神を褒め称える。

 

 

 

角笛:警告の角笛

 

 

 

参照 エゼキエル書33:17

 

33:1 次のような主のことばが私にあった。

 

33:2 「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。

 

33:3 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。

 

33:4 だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。

 

33:5 角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。

 

33:6 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

 

33:7 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。

 

 

 

「角笛」は、「警告の働き」のこと。レムナントキリスト教会の召しがそう。

 

 

 

「見張人」は、普通、高い所にいる。

 

 

 

ゆえに、「見張人」の大抵の人が、他の人よりも先に見る。

 

 

 

そして、神が、「見張人」の耳に、「語れ」というものがある。そうしたら、それを言わなければいけない。

 

 

 

Ex:獣の国、悪霊のリバイバル集会等

 

 

 

36節に書かれているように、角笛を吹かないときに、「血の責任」が問われてしまう。

 

 

 

「角笛」を吹き鳴らして、なおかつ主に感謝していきたい。

 

 

 

150:4 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。

 

150:5 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。

 

 

 

楽器や踊りで、主を賛美していきたい。

 

 

 

150:6 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。

 

 

 

「息」について見てみましょう。

 

 

 

参照 創世記2:7

 

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

 

 

 

「いのちの息」とは、「神の息」のこと。

 

 

 

「人は、生きものとなった」とは、ノンクリスチャンからクリスチャンになり、聖霊を受けて生きた人なった、ということを言われている。

 

 

 

ノンクリスチャンがキリストを信じて、「神の息」がその人に臨み、聖霊に触れる。

 

 

 

福音に関して、三つのポイント(キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられたこと)を信じるときに、聖霊がその人に働かれる。

 

 

 

エレミヤ牧師の証:高校時代にキリストを信じて洗礼を受けた。でも、行く教会が無かった。しかし、「どこかの教会へ行ったほうが良い」という風に聖霊が導いてくださった。それで教会を探すようになった。しばらくして・・・自宅から2駅目にある教会へ導かれて洗礼を受けて、クリスチャン生活が始まった。つまり、人ではなく、聖霊から語りかけを受けた。聖霊の息によって、永遠の命に近付くことが出来た。

 

 

 

救いに関しても、その人が信じたら、あとは聖霊が語ってくださる。

 

 

 

クリスチャン生活のポイント:聖霊の語りかけによって歩んでいく。

 

 

 

聖霊が下って、なんぼ。

 

 

 

聖霊の息を受けて、歩むべきクリスチャン生活に入っていきたい。