詩篇95篇 2015.1.25


95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

主御自身は、「救いの岩」

主に信頼する者は、「救い」を見る


95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

感謝賛美のことが、詩篇のあちこちに書かれている

私たちが神さまに感謝賛美をするのは、何か良いことがあったからですよね?

そして主は感謝賛美に値するお方

クリスチャン生活は、感謝賛美があってノーマルだと言える

朝から晩まで、不平や不満ばかりというのは問題

主は良いことをしてくださっている

参照 マタイの福音書5:45

5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

こんな風に主は色々と良くしてくださっているので、感謝賛美が出てノーマルなので、歩むべき道を歩んでいきたい


95:3 主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。

クリスチャンは仏像や釈迦など、基本的に他の神を拝むことはしない

しかし「器」を神にしてしまう

Ex:カトリック教会はローマ法皇の言うことは聖書より正しいとしている、しかしそれを信じるなら、天の父なるお方を神としているのではなく、ローマ法皇を神としていることになる

他のものを神とするなら、恥を見たり、はたまた永遠の命に入らないので気を付ける

しかし真に神だけを拝むなら、栄光を見たり、誉れを受けたり、真理を見たりする、ゆえにこのお方だけを頼っていきたい


95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。

95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。

:聖霊の働きのこと、神から聖霊の働きが来る

陸地(KJV):乾いた地→聖霊の働きが無いのも、神が造られた、しかしこれはNG


95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。

このお方に助けや救いがあるので、このお方を拝む


95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、

私たちは御手の羊

なぜ、牧場に行くのか?→牧草があるから

参照 ヨハネの福音書10:1‐5,7‐9

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

10:2 しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。

10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。

10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

9節に「わたしを通ってはいるなら、救われる」とあるように、キリストこそ私たちが入っていく囲いの門

そして「羊の囲い」とあるように、私たちは囲われなければならない者

たとえば、レムナントキリスト教会も危ない時があった、巧妙な惑わしが来た、しかし主の守りによって助けられた

「羊の囲い」の中で守られる、狼は外にいる、しかし「囲い」があるので入れない

私たちは「御手の羊」と言われているように、羊飼いである主の守りや囲いが必要な立場であることをよくよくわきまえて歩む

また、主の声を聞き、その声に従っていくときに、「牧草」が与えられる

ちなみに主の声を聞くのは人間的には結構大変な時もある、でも聞き続けていくときに「牧草」にありつける

ここでのポイント:羊飼いの声を聞いていく、そうするなら「牧草」が与えられるので、心配することは無い


95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

「心をかたくなにしてはならない」とあるように、主の御声を聞きながら、頑なになってしまうことがある、しかしそうなってしまうと「約束の地」「安息」(天の御国)に入れなくなってしまう、天の御国を相続できなくなってしまうので気を付ける

ポイント:主の声を聞いたら、頑なにならずに行っていく

今、クリスチャンは何か耳で聞いていても行わない時代、しかし「安息」に入らないので行っていく

御声を聞き、行うという習慣を身に付けていく、特に弟子の人は御心を行う、もっと言うなら、すぐに行う人になっていきたい→模範はペテロやヨハネやヤコブのような人、彼らは舟も網も父も捨てて従った、そしてそういう人が主の働きを担った、彼らは模範的なパターン、人間的には一見思慮が無いようにも見える、しかしそうではない、彼らの歩みが聖書の標準なのでぜひ見習っていきたい

そしてペテロみたいなスタイルになって「弟子の歩みに入ってきたな」という感じになる

自分の愚かな考えで、時を逃してしまったら、得るべき恵みを得ない、しかし行っていくなら、恵みを受ける、ゆえに速やかに行っていく

神さまの声に従っていく中で大いに恵みを受けていく、ゆえに頑なにしてはダメ


95:9 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。

95:10 わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。

「わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。『彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない。』」とあるように、40年の間、迷って「約束の地(天の御国)」に入れなかった

そして「わたしの道」とあるように、「神の道」を知るのが大事

多くのクリスチャンは知っているうように思う、しかし本当に入るべき道、歩むべき道を知らない可能性がある、ゆえに天の御国に入れなくなってしまう

ちなみに「入るべき道」に関して・・・

多くのクリスチャンは、皆天国に入れると思っている、しかしこれは間違えた道

主の言われた通り、「命(永遠の命)への道は狭い」と実感できたときに、入るべき道に入ってきている可能性がある

エレミヤ牧師の証:霊的な惑わしを通して「道は狭い」と思った、レムナントキリスト教会ではユダ族の獅子に関する啓示が開かれていたのだが、ある時それに関する預言が別途、外部から来た、しかしそれは聖霊からではなく、悪霊からのものだった、しかも的確な預言が続けざまに来た、そのことを通して、生きた敵がいることと、道(永遠の命への道)が狭いということを知った

この証を通して言いたいことは、敵がいるから道(永遠の命への道)が狭いということ、そしてサタンは人の思いにグーッと来る、ということ

敵は私たちより頭が良く、しかも的確に来る、弱点をつく

この敵と戦うので、道(永遠の命への道)は狭い、しかし主の助けを求めていくなら、守られていく

多くのクリスチャンはもっと広いところを考えている、しかし一歩誤ると、惑わしに入るので気を付ける

「主の道」を悟ることにポイントがある


95:11 それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。

「わたしは怒って誓った」とあるように、神さまが怒っている

「安息」は、クリスチャンが受け継ぐべき相続の地のこと、すなわち天の御国を指す

しかしクリスチャンが心を頑なにして御声を聞き入れなかったので、天国へ入れなかったということを言われている

「入るべき安息の地に入れない」ということについて見る

参照 申命記12:9

12:9 あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。

安住地=安息日

クリスチャンが相続する地は「カナンの地」とも言われている

旧約のイスラエルの民は、定住地を求めて歩んだ、新約のクリスチャンもそれと同じで、安息の定住地(天の御国)に入るために歩んでいる、しかし頑なで神の声に聞き従わない人は入れない

参照 ヘブル人への手紙3:7‐11

3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、

3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。

3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。

3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。

3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」

詩篇のことばが、そのまま書かれている、さらに見てみる

参照 へブル人への手紙3:12‐19

3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。

「生ける神から離れる者がないように」とあるように、そういう確信から離れてはダメ

3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

クリスチャン生活のはじめはキリストを正しく信じた、しかし途中でズレてしまう、でも、はじめの確信をしっかり保つなら入るべき所に入る、途中で「教会へ行っても仕方が無い」なんていう風に不信仰になってしまったらダメ

3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。

3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。

3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。

3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

19節で、不信仰が原因で天の御国に入れなくなる、ということを言われている→身をもって信じて正しく行わなければ、入るべき所に入れない

「行動」をもって入っていくことが信仰

主の言われた声に正しく従っていくかが、入るか?入らないか?を分ける

17節の、荒野のしかばねをさらして入れなかった人たちのことは、私たちへの教訓として書かれていることは、よくよく理解する

主の御声に従って、行うべきことを行っていくことにポイントがある

ヤコブの手紙で「行ないのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブの手紙2章26節)と言われている通りである

何ひとつ行おうとしないのは勘違い、そしてそれはNG

エレミヤ牧師の証:ひとつひとつのことに従っていく中で、奥義を悟るようになり、狭い門に入っていくようになった

聞き従わない人は、入るべき所(天の御国)に入らない

信仰は行ってなんぼのもの

主の御声を聞いたら行っていくことにポイントがある