詩篇96篇 2015.2.1

 

96:1 新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。

96:2 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

私たちは危険な所に入ったり、アダム以来の罪がある、しかし「御救い」とあるように、「救い」を受けるという面も見る、しかものちの世は、「御使い(天使)」と立場が逆転する

ゆえにすべて益になる、得られなかった恵みや救いを受けていく

クリスチャン生活は、ゴールしてなんぼのもの

パウロが言われた、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。」(ピリピ人への手紙3章12節)の姿勢が正しい、ゆえに一度救われてOKではない、それは広い門なので、惑わされてはダメ

 

96:3 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。

神のわざは、とても不思議

Ex:「双頭の鷲」のシンボルを通して、アメリカが一人二役であり、7番目、なおかつ8番目の頭だということを語っている、これはまさに奇しいわざであり、そして完全と言える

 

96:4 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

神は賛美され、恐れられるお方

「恐れる」ことが大事

旧約では明らかに神を恐れることについて語っている

でも、新約の時代、神のさばきについてほとんど語られていない、しかしこれはNG

モーセは、「二枚の板」を用意した、「二枚」とは、旧約&新約のこと、両方合わせて「律法」になる

繰り返しますが、神を恐れることが大事

参照 箴言1:7

1:7 主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

神を真に恐れる人が、正しい知識を得る、しかし恐れない人は、艱難前携挙説をはじめ、おかしなものを掴む

そして知識だけでなく、恐れることを実行する、神は時々それについてチェックされる、しかも究極のところだったりする、神を恐れるのか?人を恐れるのか?について

※エレミヤ牧師の証:長老(権威)を恐れるか?神を恐れるか?の選択を迫られた、神学校で牧師から「注解書」の購入を勧められた、しかし神さまを恐れて買わなかった、神さまが必要なことを教えてくださると信じた、そうしたらあらゆる啓示が開かれた、たとえば黙示録の7番目の王&8番目の王について、それはアメリカのことで、アメリカは一人二役だということを理解した、そして「双頭の鷲」はアメリカのシンボルだということを知った

神にテストされた時に、人間の本性が出る

エレミヤ牧師は、肝心な部分で人を恐れずに神を恐れた、そして結果として大事な啓示が開かれた

神は嫌な選択を時々迫る、しかし神を選ぶなら、良い方向へ行く

 

96:5 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。

「神々」について

クリスチャンは仏像とかを拝むわけではない、ゆえにこのことばは無関係と思う、しかしたとえの意味合いがある

たとえばマルチン・ルター、リック・ウォレン、ビリー・グラハムなどの器を「神々」とすることを言われている

器に頼る人は、恥を見る

人を神とするときに、むなしくなる

しかし主は天(教会)を造られた

教会は神によって建てられていく

神を受け入れることによって教会が建て上がる、しかし人を神とするときに崩壊する

ある時エレミヤ牧師は近所のカトリック教会の前に立ち止まった、その時に目に入ったのは、子どもたちへの補習に関するボランティアが書かれているボードだった、そのボランティア精神は素晴らしいと思う、しかし聖句のことはひと言も書いていなかった、これはNG、そしていずれカトリックは獣を拝む方向にいくのでは?と思う

主を神とするときに、色々と教えられ、歩むべき道が分かる

たとえばエレミヤ牧師はヤコブ書において、「行い」が非常に大事だと理解した

参照 ヨハネの黙示録20:13

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた

「行い」を正さないなら滅びる、しかし「行い」を正すなら「命(永遠の命)」に入ることを悟った

そして神を第一とするときに、霊的な土台が建て上がる

 

96:6 尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。

96:7 国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。

96:8 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。

ささげ物:神の前のささげ物

聖書の中で、そして旧約聖書を理解するときに、私たちは神の前に「ささげ物」をする

今の時代、羊や牛は捧げない、でもささげ物が無くなったわけではない、「ささげ物」とは、「奉仕」や「賛美のいけにえ」のことを言われている

新約のクリスチャンへ言われていることとして、具体的に神の前に奉仕するのが大事なポイント

しかし今のクリスチャンは勘違いをしている、奉仕や献金(什一)のことを「カルト」と呼んでいる

献金も、もちろんすべき、でも、奉仕をすることによって建て上げられたり、祝福に入る、ということは正しく理解する

また、奉仕、ささげ物に関して、「受けるよりも与えるほうが幸いである。」(使徒の働き20章35節)とも言われている

何も奉仕をせずに、神から良いものを受ける、というのは勘違い

※エレミヤ牧師の証:以前は普通のクリスチャンだった、しかし弟子の歩みをするようになって何十年間、奉仕をした結果、あらゆる恵みを受けた

多くのクリスチャンは「奉仕」について誤解している、さっぱり奉仕をしないので、受けるべき恵みを受けない、そして献金や奉仕は、お一人一人の益のために書かれている、ゆえに与える人は恵みを受けていく

でも、みごとに拒否する人がいる

たしかに人間的には受けるばかりが良いように思う、でも聖書は違うことを言っている

多くのクリスチャンは信仰によって歩んでいない、なぜなら信仰の無い人は何も実行しないから

でも、実行するなら良いことばかり→掲示が開かれる、助けられる

もし、このことが身に着いていないなら、ささげ物について根本的に理解する→益のため、そして受けるべき恵みを受ける

どのみことばも、守る人が幸い

 

96:9 聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おののけ。

96:10 国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」

96:11 天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。

96:12 野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。

96:13 確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる。

13節では、「再臨の主」について言われている、そして「地」に属するときに、「さばき」の対象となる

参照 ヨハネの黙示録8:13

8:13 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む(英語:dwell定住する)人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

ゆえにこの地ではなく、天に属する者として歩みたい

真実(KJV):真理

聖書を読むのは、ひとつのこと、しかし真理を掴むか?偽りを掴むか?については別のこと、皆が聖書を読んで真理を掴むとはかぎらない、たとえば「ものみの塔(エホバの証人)」の人たちも聖書は読んでいる、しかし彼らはイエス・キリストは神ではない、と言っている

同じ聖書を読んでいても、真理ではないものを掴んでしまう、そして真理を掴んでいないなら、さばきの対象になってしまう、なぜなら真理をもって神はさばくから

今、偽物やインチキを掴んでいる人が多い、そして艱難前携挙説や艱難中携挙説を掴んでいる人は、神のさばきに入る可能性がある

それに関して・・・サルデス(プロテスタント)の教会は、キリストがいつ来るか決して分からないと、聖書は語っている(ヨハネの黙示録3章3節)そしてなぜ、キリストの再臨が分からないのか?それはプロテスタントがインチキを掴み、真理に従って歩んでいないから

また、プロテスタントはそれにかぎらず、あらゆることを間違えている、たとえば「行い」について否定していたり、言わなかったりする、また、キリストは二回来る、と言っている、ゆえに大失敗する

それゆえに「真理」を受けているのは大きなこと→さばきから逃れる

今はそうではなくても、「真理」を受けているかどうかが、再臨の時に大きな差をもたらす

また、プロテスタントは「信仰」を強調し過ぎて、「行い」を無意味としている、しかしこれはNG、なぜなら「さばきの時」には「行い」によってさばかれるから

参照 ヨハネの黙示録20:12

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた

「真理」によって、神はさばかれる、というポイントについては正しくとらえておきたい

艱難前携挙説は、真理ではないので、「義」とされない、そしてさばきのポイントは「行い」であって、「信仰」によってさばかれるわけではない

「行い」に関して少し見てみたい

参照 ヨハネの黙示録3:1

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる

「行い」「死(罪)の行い」だと言っている、ゆえに「命の書」から名が消される

参照 ヨハネの黙示録3:8

3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである

「あなたには少しばかりの力があって~否まなかったからである」とは、これはつまり「行い」について言われている、そしてフィラデルフィヤの教会は、「行い」によって「義」とされた

参照 ヨハネの黙示録3:15

3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

こういう行いに対して、問題だと言っている

ここでのポイント:聖書は「さばき」に関して「行い」という風に一貫して語っている

「信仰」のみを強調せず、「行い」に目を留めることが大事、しかし多くのクリスチャンは、「信仰」を強調し、「行い」をしない

「真理」に沿って歩むことにポイントがある、なぜなら「真理」によって、さばかれるから

たとえばラオデキヤの教会は、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」(ヨハネの黙示録3章17節)と言って、「賜物」があることを強調している、しかし「罪」があるので「永遠の命」を得ることができない、そして多くのクリスチャンがそうなっている

「真理」から離れると、「災い」に入る、ゆえに「真理」に則して歩み、神のさばきを免れていく