詩篇40篇 2014.1.5

 

 

 

40:1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、

 

40:2 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

 

40:3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

 

色々と大変な時がダビデにあった、しかし叫んだら主が滅びの穴、泥沼から引き上げてくださり、巌の上に置いてくださった

 

私たちに惑わしがあっても主に叫ぶときに、巌の上に置いてくださる

 

:弟子の歩み

 

主に叫んだり求めていくなら、聞いてくださる

 

主に頼ることにポイントがある

 

 

 

40:4 幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。

 

主に信頼する方法がある、しかし他の方法もある

 

高ぶる者(KJV):高ぶる者を尊敬する

 

偽りに陥る者(KJV):偽りを言う人を尊敬する

 

偽りの教え:耳障りの良いもの Ex:艱難前携挙説、地獄は無い

 

参照 Ⅱテモテへの手紙4:3,4

 

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

 

4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 

そういうもの、いわばインチキのものを尊敬するなら恵みがない、災いを受ける

 

 

 

40:5 わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。

 

御計り:気遣い、気配り、おもてなし

 

主は私たちに対して色々と配慮してくれたり、考慮してくれている

 

ダビデはそれをきちんと見ていた

 

「私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません」とあるように、しかも一回や二回ではない

 

しかも私たちが配慮と思わないことが配慮だったりする Ex:親の心、子知らず

 

「数も知れず」とあるように、このこともあのことも、神の配慮の下にある

 

そして中には、命に関係する配慮もある

 

:エレミヤ牧師は過去、交通事故から守られたことがある・・・交差点で信号待ちをしていて、いつもなら信号が青になるとすぐに横断するのだが、その日はなぜか少しの間そこに留まっていた、そうしたら目の前をトラックが走行(もちろん信号無視で)したとのこと、トラックは信号が赤だということにすら気付いていないようだったが、しかしもし、すぐに歩行していたら間違えなく引かれていたと思うし、最悪命を失っていた可能性がある、しかし主の配慮によって守られた

 

証はこんな感じなのだが・・・しかし、もし、「神の何も配慮を感じない」と言うなら、それは問題と言える

 

聖書のどこかに書かれているように、サタンは神の栄光を隠す、神のわざを「偶然」と思わせる

 

色々と見えなくなっている、しかし見えていくことにポイントがある

 

 

 

40:6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

 

40:7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。

 

40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

 

40:9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。ご覧ください。私は私のくちびるを押えません。主よ。あなたはご存じです。

 

参照 へブル人への手紙10:517

 

10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

 

10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

 

10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」

 

10:8 すなわち、初めには、「あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。」と言い、

 

10:9 また、「さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。」と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。

 

10:10 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

 

10:11 また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

 

10:12 しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、

 

10:13 それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 

10:14 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

 

10:15 聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。

 

10:16 「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。

 

10:17 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」

 

前者:旧約の民が捧げたいけにえ、しかしそれは廃止された

 

後者:イエス・キリストが犠牲を捧げたことによって、私たちは動物を捧げなくても受け入れられるようになった

 

私たちの心の中に、聖霊による律法があらわれた

 

ゆえに書かれた文字を律法に従って歩まなくて済む

 

それを信じていく人は聖霊にある律法が記される、心の板に書き付けられる

 

どこまでも聖霊にある歩みをしていく

 

信じる人は神の律法が教えられる

 

心の中にある律法に大きなポイントがある

 

 

 

40:10 私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しませんでした。

 

40:11 あなたは、主よ。私にあわれみを惜しまないでください。あなたの恵みと、あなたのまことが、絶えず私を見守るようにしてください。

 

40:12 数えきれないほどのわざわいが私を取り囲み、私の咎が私に追いついたので、私は見ることさえできません。それは私の髪の毛よりも多く、私の心も私を見捨てました。

 

40:13 主よ。どうかみこころによって私を救い出してください。主よ。急いで、私を助けてください。

 

私たちの咎が、私たちに追いつくときがある

 

しかし絶望せずに祈り求めていくときに、主が解放してくださる

 

 

 

40:14 私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受けますように。私のわざわいを喜ぶ者どもが退き、卑しめられますように。

 

40:15 私を「あはは。」とあざ笑う者どもが、おのれの恥のために、色を失いますように。

 

たしかにこういう人がいる、でも、霊に関するものもある

 

人間だけでなく、御使いレベルで邪悪な思いを持っている存在がある

 

私たちもこういう存在に囲まれて生きているという概念を持つ

 

隙があらば敵が惑わそう、ひっくり返そう、落ち込ませようと、そういう中で「永遠の命の道」に入っていかなければいけない

 

そして色々と悪い計画や災いをもたらす存在が卑しめられるようにという祈りをしていく

 

永遠の命に近付けば近付くほど色々と来る、ゆえに永遠の命への道は「狭い」と言える、敵がいるからである

 

敵の存在を理解しなければいけない

 

教会にも落とし穴がある Ex:艱難前携挙説

 

油断も隙も無い、その中で永遠の命を得ていくのが正しい歩み

 

もし敵が見えないなら、私たちの目がごまかされている

 

でも、敵ありきという概念で歩みをしていくときに、入るべきところ(天の御国)に入る

 

すべての種が実を結ぶわけではない

 

ルールを知らなければいけない→永遠の命を得るために、「敵がいる」という大きなルールがある、それがクリスチャンの歩み

 

大事なことは皆、語られている

 

 

 

40:16 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「主をあがめよう。」と、いつも言いますように。

 

40:17 私は悩む者、貧しい者です。主よ。私を顧みてください。あなたは私の助け、私を助け出す方。わが神よ。遅れないでください。

 

主に助けを求める人は主の助けを受ける、光を見る

 

はじめからではなく、光は徐々に見えてくる

 

求めていく人は真理を見る