詩篇41篇 2014.1.12

 

 

 

41:1 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。主はわざわいの日にその人を助け出される。

 

弱っている者(KJV):貧しい者

 

「貧しい」ということばに関して少し見てみたい

 

参照 マタイの福音書5:3

 

5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 

心の貧しい(原語):霊が貧しい

 

この世の「貧乏」ということばで連想するのは、お金が無いので乞食のように物を欲しがっているというイメージ

 

これは霊の世界でも同じ

 

霊的において貧しくてそこにとどまらず、乞食のように一生懸命求めていく、そしてそれは幸い→天の御国をゲットしてしまう

 

霊的な事柄に関連して、霊的な渇きがあって積極的に乞食のように求めていくなら天の御国をゲットする

 

エレミヤ牧師の証:ある時、霊的な飢え渇きを覚えたので、教会の祈祷室で祈っていた、そしてこのことによって・・・霊的なことを求めていくときに心を満たすものとなり、神に触れるチャンスとなることが分かった

 

貧しくて主に求めていくと、主に助け出される

 

霊的に飢えがあるのは恥ずべきことではない、でもその時に他のものを代用して満たすのはNG

 

 

 

41:2 主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。

 

41:3 主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。

 

たとえ霊的に飢えても、求めていくときにすべて癒される

 

霊的なことに関して、すべて主に満たされることを求めていくときに得るべきものを得、霊的な病も癒される

 

病んでいても、求めていくときに癒されていく

 

霊的な飢えや渇きがくるのは大事なこと、それをもって求めていく、必要な祈りをしていくこにポイントがある

 

 

 

41:4 私は言った。「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」

 

41:5 私の敵は、私の悪口を言います。「いつ、彼は死に、その名は滅びるのだろうか。」

 

41:6 たとい、人が見舞いに来ても、その人はうそを言い、その心のうちでは、悪意をたくわえ、外に出ては、それを言いふらす。

 

41:7 私を憎む者はみな、私について共にささやき、私に対して、悪をたくらむ。

 

41:8 「邪悪なものが、彼に取りついている。彼が床に着いたからには、もう二度と起き上がれまい。」

 

悪意の中でクリスチャン生活を送っていることを理解する

 

兵士としての戦いがある→歩みや働きを妬んだり、妨害したり、邪魔をしたり、失敗を喜んだりする存在()がいる

 

こういうことをお一人一人の横で、悪意をもって言う存在がいる、耳元でそういう声がある

 

そういう存在に世の中は導かれている

 

もちろん聖霊の導きもある

 

私たちは2つの戦いの真っ最中にいる

 

特に落ち込んだり、問題が起きたときに来る

 

そのときに、かさにかかった声が聞こえる、どんどん悪い声が聞こえる、そういう中で永遠の命をゲットしなければいけない

 

普通にやっていたら、悪くなっていく

 

しかし主の声を聞いていくなら、惑わされない

 

色々と画策する霊がいる

 

滅びるような霊が企まれている

 

Ex:クリスチャンが艱難前携挙説のことを持ち出したり、未信者が進化論(神を否定する教え)を言ったりする

 

ゆえに普通に生活をしていたら、悪意の下に滅んでいく

 

 

 

41:9 私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

 

これは主に関連しての預言でもある

 

参照 ヨハネの福音書13:18

 

13:18 わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。

 

主は弟子を選んだ、そしてユダは12弟子の一人、なのでユダは一時的にはやる気があった、ユダなりにキリストに従っていこう!という気持ちがあった、しかしイエスを裏切った、このことは弟子の歩みをしていても、その中で裏切る人が1/12の確率で在り得ることを示しているのでは?

 

パン:みことばに関連する

 

ゆえにメッセージを聞いた人が裏切ったことを言っている

 

そして私たちもこういうことを覚悟しなければいけない

 

メッセージを聞いても、後の日に裏切られてしまうことがある

 

これはあってはならないこと、しかし一面聖書的とも言える

 

だからと言って弟子を募集しないのは御心ではない、それは聖書的ではない、教会が建て上がらない

 

裏切られるということも想定して行っていく

 

人々にメッセージを伝えていく

 

悪口を言われたからといって、やめることにポイントは無い

 

そういう苦しみも働きの一部と考える

 

 

 

41:10 しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。

 

41:11 このことによって、あなたは私を喜んでおられるのが、わかります。私の敵が私に勝ちどきをあげないからです。

 

41:12 誠実を尽くしている私を強くささえ、いつまでも、あなたの御顔の前に立たせてください。

 

41:13 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。

 

11節にあるように、敵が大勝利を得ないことによって主が喜ぶ

 

困難の中にあっても働きを行って、敵が意気消沈するなら主が喜んでくださる