詩篇43篇 2014.1.26

 

 

 

43:1 神よ。私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ、神を恐れない民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。

 

主の時を思い出す

 

主を憎み、訴え、死刑に決めた律法学者&パリサイ人

 

彼らはキリストから、「白く塗られた墓」と言われてしまった

 

彼らは自分たちが正しくなかったのでキリストを憎み、粗探しをし、死刑に処した

 

「欺きと不正」は主の時に成就した

 

もしも正しく主についていくなら・・・このことは私たちの上にも成就する

 

みことばを正しく語る時に、これから法律を下に訴えられる可能性がある

 

同じ聖書でも、欺きの方法で読んでいくという類いの人がいる

 

そういう人が正しい人を非難する

 

そういった人たちとの教理に関わってくる

 

ゆえにこの祈りにポイントがある→「欺きと不正の人から私を助け出してください」

 

そういう罠に入らないように祈ることが大事

 

『欺きと不正の教理』があるので、そこから助け出してください」という祈りは大事

 

Ex:ブラザレン系の教え→自分で罠をかけて、引っ掛けている

 

黙示録のフィラデルフィヤのことばから「ブラザレン」ということばが出てくる

 

彼らには「ニコライ派(民衆)に打ち勝つ」という教えがある

 

ゆえに教会の中に中間祭司や教師はダメ、皆同じ立場に立たなければいけない、牧師は立ててはいけないということを神が語っているという教え

 

ゆえに牧師がいる教会に行ってはいけないと自分で自分を縛っている、そして惑わされている

 

しかしそういう不正から「助け出してください」と祈る人は助けられ、正しい道に戻る

 

たとえ罠に掛かっていたとしても、祈りの中で解放されていく

 

 

 

43:2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を拒まれたのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。

 

神ご自身が私たちの力なので、この方に頼っていきたい

 

 

 

43:3 どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。

 

「光とまこと」について

 

まこと:真理

 

神の「光」「まこと」(真理)は非常に大事なこと

 

「光」に関連してみていきたい

 

参照 ヨハネの福音書8:12

 

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

キリストに従って歩むなら、「いのちの光」を持つようになる、やみを歩くことがない

 

この世でもそうであるように、暗いと何も分からない、でもあかりを持っている人といるなら歩ける

 

主に従い続けていくなら、「光」を見続けて歩める

 

レムナントもそう、「光」を求めている、艱難前携挙説をつかまずに、逆にそのことを指摘している、どんなに暗いところも「光」で照らすことができる

 

Ex:世の終わり、困難な時が来る、教会に困難な時代が来て善を行う者をそしる、そしてそれは悪霊から来るということを理解した、キリストに従う時に「光」が与えられる

 

参照 ヨハネの福音書12:35,36

 

12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

 

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。

 

「光」の特徴:いつまでも世にあるわけではない、世の中もそう、夕暮れになるとだんだんと「光」がなくなってやがて真っ暗になる、そしてキリストの「光」もそれと同じ

 

彼らから身を隠された:彼らから、「真理の光」が消えた、そしてこれは暗示的

 

神によって「光」が内側からくる、そしてそれは永遠に心にとどまるものではないとういう一面がある、とどまるのに限りがある

 

ゆえに「光」がきたら、応答する

 

次に、「まこと」(真理)について見ていきたい

 

参照 ヨハネの福音書8:3136

 

8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

 

8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 

8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」

 

8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。

 

8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。

 

8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

 

「真理」は罪から自由にする

 

32節:クリスチャン生活の大きな問題:まとわりつく罪からなかなか自由になれない

 

自分の生涯を通して罪と戦わなければいけない、これに勝利せずに奴隷のままクリスチャン生活を送るなら、行き先は異なる Ex:パリサイ人や律法学者はゲヘナに行った

 

人前はともかく、真の意味合いで罪からの解放を正しくゲットしないなら、後に行くところが変わる

 

35節:「家」は天の家

 

Ex:アブラハムには二人の息子がいた、そして女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルは奴隷(罪の奴隷)の子どもなので天の御国に入れないパターン、しかし一方サラから生まれたイサクは自由(罪からの自由)の子どもなので御国を受け継ぐパターン、ここで言われているのは、私たちが罪から自由になるときに御国を継ぐということ

 

私たちクリスチャンは生涯を通じての戦いに召されている、その際きちんと罪と戦うかどうか?!

 

大事なポイントで時間&エネルギーを使う

 

罪から自由にならないと、御国を受け継ぐことはない

 

その時に、「真理」という事柄が関係する

 

31,32節:罪から自由になることと、弟子とが関係する

 

「真理」は罪から自由にする

 

弟子の歩みと真理を見ることや罪から自由になることと関係がある

 

真理を私たちがつかむなら、それを通して自由になる

 

真理(英語):truth,true(正解)

 

「真理」は、「本物」「正解」という意味

 

偽物をつかむ人は罪から自由にならない

 

本物をつかむなら罪から自由になる、正しい歩みに入る

 

偽物はNG

 

私たちがインチキをつかむなら建前だけで、罪から自由にならない

 

本物をつかむのは非常に大事

 

弟子の歩み&御心を行うことは真理と関係する→とらわれていることからどんどん解放されるようになる、この世に使っていた思いやエネルギーを神に使えるようになる

 

 

 

43:4 こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。

 

神の元に行く

 

 

 

43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。

 

私たちは絶望する必要はない、色々と困難があっても神をほめたたえるという姿勢が大事

 

少しずつ尊い器として用いられる

 

なおも主を待ち望み、主に期待していき、応えていただきたい