詩篇90篇 神の人モーセの祈り  2014.12.21 

 

神の人モーセの祈り 

 

詩編90篇は、人の人生は短いと言っています。 神の怒りが度々語っています。  

 

 

90:1 主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。

 

人生は、虚ろいやすい。また、神の怒りを買っていく時に速やかに過ぎ去っていく。クリスチャンの歩み、教会の歩みに関しても語られています。 「真の土台」「真の歩み」 → 基本は、神ご自身。 

 

90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。 

 

神ご自身が基準であり、真理です。

参照 90:6節に「しおれて枯れます」

神さまからずれていくことは、祝福から離れ花が枯れるように恵みや栄光が去っていきます。

 

90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」 

 

「ちりに帰らせる」:良い意味ではない。栄光を受けることなく結局元に戻ることを言う意味。

 

参照 伝道の書 12:7 

今までのことは、むなしかったという意味。

 

12:1

教会やクリスチャンに対しての預言的な言葉。(未来の預言)。 

あなたの創造者を覚えない時に → わざわいの日が来る。何の喜びもない。

 

12:2

「太陽」とか「月」は器に関してのたとえ。 暗くなる → 真の光が消えていくこと。終末の預言です。惑わしに入っていくことを指す。

 

12:3

「家」=教会。 「守るものは震え」=教会の守りがはずされること。 「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」=み言葉の飢きんが来る。世の終わりが来る。(預言)

教会の器官「目」の働き(教会の霊)が暗くなる。

 

12:4

「臼」=麦やパンのたとえ。 → み言葉に関しての働き人が消え失せてしまうこと。

 

12:5

「永遠の家へと歩いて行き」=「ご臨終」という意味。人間も寿命があるように、教会にも寿命がある。最後は残念ながら良い終わりかたをしない。

 

12:6

「金の器は打ち砕かれ」=聖霊もとどまらない。

「水がめは打ち砕かれ」=聖霊の働きが消えていく。

「滑車が井戸のそばでこわされる」=聖霊の働きがなくなる。

 

12:7

「ちり」=肉体。 「肉体」からと「霊」からできている。霊は、神から来る。聖霊のことを言っている。最終的に教会から聖霊が失せていくということ。

参照 第2テサロニケ 2:3-7 別な言葉で言えば「背教」という言葉と同じ。 追い出される→離婚されるというニュアンスです。聖霊が追い出されるということ。

 

詩編に戻ります。

90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」 

 

「人の子らよ、帰れ。」:伝道の書12章と見比べると分かってきます。「背教」に関しての預言。 ex:1000年に1度の津波、30m津波はありえない。→ 2011・3・11、実際に起きた。同様に教会の滅びの未来があり得ないと思われるが、私たちの理解では、あり得ないことが起きる。それを見越して歩む人は正解である。私たちは知っています。聖書に書いてあるから。でも、世の人やほとんどのクリスチャンが聖書を読んでいても終末のことについて信じないだけ。行いについて反映されていない人が沢山います。成すべきことを成す。ますます祈りの時間をさいて、み言葉に近づいて真理に行っていく。それが備えであることを覚えておいてください。

参照 イエス様は言っています。「行いなさい。そうすればそれで命を得ます。」

 

90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。

1000年とか2000年という単位。教会でもせいぜい2000年。それもひと時のようなものです。→ 速やかに来るということ。  

 

90:5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。

 

90:6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 

 

個人に対して、またクリスチャンだけでなく教会に対しての預言。教会は初めから問題があったのではない。初めから「背教」もあった訳ではない。参照 黙示録2:4 エペソ教会 →初めの愛、忠実さもあったが花もしおれ、枯れてしまったように残念ながら、教会の最後は枯れて、実も無くなってしまい、

 

90:7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。

 

最後は、御怒りによって消え失せる。神の御怒りが押し寄せてくるということを語っています。正しく理解していくことが大切です。

 

90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。 

 

神の前にオープンな姿でも正しく、隠れたところでも正しく歩めるように求めていく。 

 

90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。

 

90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

 

90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。 

 

残念ながらイエス様の時代の律法学者やパリサイ人は、神の怒りを理解していなかった。彼らは神さまのすさまじい怒りを買って、エルサレムはローマによって包囲され、エルサレムの人々は最後の一人まで殺されてしまった。彼らの予想を超えて神の怒りを買った訳です。これは、型に過ぎません。また、教会時代のクリスチャンも、神の怒りから逃れることは難しい。神の御怒りの前に神に恐れることを正しく理解していく。※黙示録の7つの封印は神の御怒りのゆえです。

 

90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。 

 

知恵が必要。歩むべき正しい道に関して主から知恵を教えてもらうことが大切です。  

 

90:13 帰って来てください。主よ。いつまでこのようなのですか。あなたのしもべらを、あわれんでください。 

 

90:14 どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。 

 

90:15 あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて、私たちを楽しませてください。 

 

90:16 あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光を彼らの子らに見せてください。 

 

このように祈るべきです。私たちが正しく歩むとき神のわざが見えてきます。そして、神の働きが見えてきます。

 

90:17 私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。 

 

手のわざが確かでないと崩れて壊れてしまいます。私たちも確かなることを行えるようにしていきたいと思います。