詩篇92篇 2015.1.4

 

賛歌。安息日のための歌

「安息日」とは、一週間の7日目のこと、そしてそれは7つ目のミレニアム(21世紀)に通じるので今がまさしく「安息日」と言える

 

92:1 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

神さまに感謝をすることに御心がある

たとえば人は普通、何も無い時に感謝はしない、しかし人から何かをしていただいた時には感謝をする

先日エレミヤ牧師はお店に入ろうとした時に人がいて、しかしその人はエレミヤ牧師が店内に入れるようにドアを押さえていてくださったそうです、そして聞こえたかどうかは分かりませんが、その人にひと言「ありがとうございます」と言われたそうです

そんな風に、何かをしていただいた時に私たちは感謝をしますよね?

そして私たちは神さまが色々としてくださったことについても感謝をします

しかしそうではあっても皆が皆そうではなく、ある人は感謝をするし、しかしある人は感謝をしない

でも、ぜひ神さまに感謝をしていきたいと思う

 

92:2 朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。

92:3 十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。

3節に「十弦の琴」とか「六弦の琴」と書かれているが、これらは「賛美」に通じる、そして賛美を捧げることも、とても大事だということを言っている

真実(KJV):忠実

「忠実」ということに関連して、こういうことを言ってはなんですが、残念ながら人間のことは過度に期待できない、何かの拍子にあっさりと手のひらを返してしまうから・・・でも神さまは忠実なお方なので、大いに期待して良い

ゆえに私たちも神さまに対して忠実になっていきたい

 

92:4 主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。

神さまは私たちに色々なわざをなしてくださっている

お一人一人に大事なことを教えてくださったり、導いてくださっている→「私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います」とあるように、そのことに対して喜び歌っていきたい

 

92:5 主よ。あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。

神さまのみわざは大きく、考え深いということをここで言われている

そして神さまの立てたご計画は大きなもので、深い考えに基づいている

ひとつは、旧約のイスラエル&新約のイスラエルについてのことが言える→旧約のイスラエルの歴史は新約のイスラエル(教会)において、ピタッと語るように繰り返されている

参照 伝道の書

1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

また、旧約に起きた「宮の崩壊」や「バビロン捕囚」が繰り返されつつある

そういう繰り返しを見るべき人は見る、でもあまりにもスケールが大きいので気付かない人も多い

たとえば日本の天皇家が万世一系のダビデ王朝の末裔だということを聖書は述べているのだが、いかんせん悟らない人が多い

でも、いくら語っても見ない人は見ない、という認識を持っているなら、驚くに値することではない

「神さまのご計画」に関連してふたつ目として、神さまがその日に「わな」を掛けられるということが挙げられる

これはどういうことか?と言うと、たとえ聖書のことばを扱う人であっても、悪を行う人や偽善的な人は「わな」に掛けられてしまうということである

Ex:当時のパリサイ人、律法学者は大きなわなに掛けられた人たち、彼らはメシヤ(救い主キリスト)を目の前にしながらもさいごまで悟らなかった、彼らにとってこれは「わな」と言える

しかしこういった「わな」は、全く同じ形ではないにしろ、終末にも仕掛けられる可能性があると思われる

そもそもクリスチャンは神さまのスケールの大きさを信じていないのでびっくりする

でも、みことばを知っているなら、「神さまのご計画」に驚嘆することはない

 

92:6 まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。

たしかに神さまは大きなことをする、しかし多くのクリスチャンは神さまのわざを悟らないというのが現実

そして「まぬけ」「愚か」だと、それが分からない

たとえば終末の神さまのご計画のひとつとして、「宮の崩壊」なんてことが挙げられる、「宮の崩壊」のことを多くのクリスチャンは、「今現在イスラエルに建っている神殿がいつの日にか壊されて、その場所に第三神殿が建設される」という風に勘違いしている、しかし聖書で言われている「宮の崩壊」とは、教会の土台がひっくり返されるという意味合いである、要は使徒たちから伝承されてきた聖書の根本的な教えがひっくり返されて、さいごには教会の礎石であるイエス・キリストの教えさえひっくり返される日が来るということの預言でもある

そのように言われているのだが、しかしそのことを見ないクリスチャンが多い

たとえ真理の光があっても、しかしまぬけだったり、愚かだったりする場合に見ることができなくなってしまう

ゆえに警告をした結果、真理を見ないからと言って、自分のせいにする必要は無い、神さまが見えなくしたら見えないので、神さまから示しを受けたらそのことを伝えていきたい

Ex:聖書で語られている終末の獣の国はヨーロッパではなく、アメリカであることなど、主からの啓示を宣べ伝えていきたい

 

92:7 悪者どもが青草のようにもえいでようと、不法を行なう者どもがみな栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです。

「不法を行なう者」とは、律法学者やパリサイ人のように、神のことばは正しいにも拘わらず曲げてしまう人のこと、つまり真理を曲げてしまう人のこと、今で言えば艱難前携挙説を唱えている牧師や教師たちのこと、しかしたとえそういう人たちが人の前にどんなに栄えているように見えても気にしない、それは一時的なものであり、ここに「彼らが永遠に滅ぼされるため」と書かれてように、悔い改めないなら結局は滅んでしまうから

 

92:8 しかし主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます。

92:9 おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びます。不法を行なう者どもがみな、散らされるのです。

「不法を行なう者どもがみな、散らされる」(神のことばを曲げる人)とあるように、聖書は教会のことをメインに書いている

 

92:10 しかし、あなたは私の角を野牛の角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。

92:11 私の目は私を待ち伏せている者どもを見下し、私の耳は私に立ち向かう悪人どもの悲鳴を聞きます。

92:12 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。

92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。

「年老いても」と書かれているように、人間はどうしても年老いてしまう、そして年老いるとスポーツとかは難しくなってしまう、しかし「年老いても」のことばに続いて、「なお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう」とあるように、神さまの働きはそうではない、ということを言われている、ゆえに希望を持って神さまの働きに励んでいきたい!

 

92:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。

人間はどうしても間違える、それに関してレムナントも例外ではない、しかしそうではあっても、たとえ間違えることがあったとしても、その都度是正しながら全体の方向として正しい方向へ行けば良い