詩篇93篇 2015.1.11

 

93:1 主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。

93:2 あなたの御座は、いにしえから堅く立ち、あなたは、とこしえからおられます。

「主は、王であられ」とあるように、当たり前のことではありますが、「主なる神が王」である、ということを言われている

聖書の主張や聖書の記述を見ていくときに、真の王は「神さま」ということが理解できる

「神が王」だということについて少し見たい

参照 Ⅰサムエル記8:58

8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。

8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。

8:8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

ここで、イスラエルにも「人間の王」が立つことが言われている、そしてはじめにサウル王が立ち、それからダビデより王はずっと続く、しかしそれは必ずしも神の御心ではない、なぜか?と言うと、イスラエルは神が治めていたから、そして新約もそれと同じように、私たちの真の王も「神御自身」である

ちなみに「神の国」ということばが新約聖書には頻繁に出てくる、そしてこのことばは英語では“kingdom of God”とある

このことばからも名目だけではなく、真に治めているのは神だというこどか理解できる

また、イエスさまの罪状書きには、「ユダヤ人の王イエス」とヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれた、ゆえにこれは王さまを殺したことになる

そしてこのことは新約時代にもつながってくるのでは?と思う、なぜか?旧約時代に起きた歴史は新約時代にも起きてくるから

新約聖書に出てくる「神の国」ということばについて考えてみる

参照 ルカの福音書13:20,21

13:20 またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。

13:21 パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」

上記みことばは、未来の教会に対しての預言でもある

ちなみに「教会」の別名は「神の国」、ゆえに新約の王国は「教会」と言える

また、新約の神の国は良いことばかりではない、「女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました」と書かれているように、パン種(罪)が教会に蔓延する

そして繰り返しますが、旧約時代の神の歴史は、新約時代にも再現する

黙示録は教会の終わりのことについて書かれている、たとえば「彼らの主もその都で十字架につけられたのである」(ヨハネの黙示録11章8節)とある、そしてこのことは初降臨のキリストの十字架殺しの再現のことを言われている、たしかに「つけられたのである」とあたかも過去形で書かれている、しかしギリシャ語の時制ではアオリストの表現が使われていて、すなわち過去も現在も未来のことをも指す、ゆえに未来に、すなわち教会の歴史のさいごに再現すると言える

また、私たちが教会の姿を見るというときに、人間的な目ではなく、聖書の視点に基づいて見なければいけない、というポイントはとらえておくと良いでしょう、そう、教会に「背教」が再現することをも正しく見ておきたい

再び詩篇のみことばを見たい

「みいつ」とは「権威、栄光」のこと、そしてこのことはその通りである、主は権威や栄光を身にまとっている

そして「まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません」と書かれているように、神の王座には「揺らぎ」が無い、そのことのゆえに「真の王」を「王」として崇める、「二人、三人の王」に仕えてはダメ

参照 ルカの福音書16:13

16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

たしかに多くのクリスチャンやキリスト教会の名目はキリストが王、しかし現実はこの世の方法や有名の器の方法を取っている、なんていうことが往々にしてある

でも、本当に恵みを受けたいのなら、「唯一の王がキリスト」ということを理解し、そのことを実践していかなければいけない

神が王として治めているのが唯一「教会」、ゆえに王の命令を守る人が恵みを受ける

それは場合によっては信仰が試されるかもしれない、しかしきちんと従うなら恵みを受ける

過去、エレミヤ牧師は艱難中携挙説を推進している教会へ通っていた、しかしある時それは誤りであることをみことばから示されてそれを受け入れなかった、特に教会に反発したわけではなかったが、しかしその結果教会を追い出されることになってしまった、けれどもみことばにしたがったゆえのことだったので、のちに恵みを受けることができたそうです

そんな風にたとえ「教会」と名が付いていても、神さまの言われることと、人の言うことと、異なる場合がある、しかし神さまのことを優先するなら恵みに入るので、ぜひそんな風にしていきたい

 

93:3 主よ。川は、声をあげました。川は、叫び声をあげました。川は、とどろく声をあげています。

:「水」に関することで、霊的な事柄のたとえ

参照 ヨハネの福音書7:38

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

ここで言われている「川」は「聖霊」のことを指す、そして「霊」と言っても二分する、「聖霊」だけでなく、悪霊も存在する

そして「とどろく声をあげています」とは、これは「悪霊」のことと思われる、それに関連して他の聖書箇所も見てみましょう

参照 創世記7:17

7:17 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。

創世記7,8章は「ノアの洪水」について書かれている

また、「ノアの洪水」は世の終わり、「霊(悪霊)の洪水」の再現をあらわす型として書いてある

そして、「箱舟を押し上げた」ということばが、先ほどの「声をあげた」と同じことを言われている

「洪水の水(悪霊の水)」で押し上げた、そのような時がこれから来るということを言われている

そのことに関連してさらに見ていきたい

参照 創世記6:13

6:13 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

ノアの時に神さまは地を滅ぼそうとされた、そして実行された

ゆえに終末も恐れる、霊の洪水が来るので「永遠の命」を確保する、ぜひ自分たちの救いを求めていきたい

参照 創世記6:17

6:17 わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。

「いのちの息あるすべての肉なるもの」ということばに語りかけがある

このことばは、「聖霊」を持っていても、しかしなおかつ「肉的」なものではダメだということを言われている

つまりクリスチャンであっても、世の終わり、肉的な歩みのクリスチャンは「霊の洪水」で滅びる

そのことに関連して、今、クリスチャンで変な霊の影響を受けている人が増えている

参照 創世記7:22

7:22 いのちの息を吹き込まれたもので、かわいた地の上にいたものはみな死んだ。

「かわいた地」とは、水の無い、すなわち聖霊の働きが無いことに通じる、ゆえに「かわいた地の上にいたものはみな死んだ」とは、クリスチャンであっても聖霊の無い人は死んだことを言われている

色々な霊の影響を受けている人がいる、しかし神からのものではない霊は、滅びに至ってしまうのでよくよく気を付ける

詩篇に戻ります

「川は、声をあげました。川は、叫び声をあげました。川は、とどろく声をあげています」とあるように、このように悪霊は色々と声をあげてくる、でもそんな中でも聖霊の声だけを聞いていき、永遠の命を得ていきたい!

 

93:4 大水のとどろきにまさり、海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます。

ここに書かれているように、「大水(霊的な事柄)のとどろき」(悪霊の声)がある、しかし「海の力強い波にもまさって、いと高き所にいます主は、力強くあられます」と言われているように、これらの霊の働きに優って主は力強いということが理解できる

「とどろき」とは「声」とか「音」のこと、それに関して少し見てみましょう

参照 創世記3:8

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

(主の)声とどろき

色々な霊が「惑わしの声」を聞かせる、しかし神の声を聞くならキリストに留まれる

でも、残念なことに今の時代は「惑わしの声」を聞いている人が多い

たとえば「艱難前携挙説」とか「獣の国がヨーロッパ」とかは、まさに「惑わしの声」だと言える

でも、レムナントはアメリカが獣の国だと理解した、そしてそれは「惑わしの声」にまさって、神の声が正しいということに通じるのでは?と思う

ゆえに教会の規模の大小に拘わらず、神の声を聞くなら正しい方向へ行く

 

93:5 あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ、いつまでも。

「聖なることがあなたの家にはふさわしいのです」と書かれているように、この世の罪や汚れから離れて、聖なる者になっていくときに神の働きを担う、たとえの意味合いや奥義を悟ったり、必要なことが示されたりする

たとえばイザヤ書に書かれている連れ合いや相方の箇所に関して理解する、それに関連して、ダニエル書の「七十週」は、マタイの福音書の7の70倍であること、つまり兄弟を許す回数、もっと言えば神の忍耐の期間である、ということを理解した

私たちが聖なる歩みをして主に留まるときに、大事な啓示を教えていただける