1ペテロ3:110            2015.3.22

 

3:1同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 

どういう流れの中でこの事が書かれているかというと、「同じように」と書かれているので前と同じ、すなわち、

 

2:22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 

いろんなケースがある。

一つの基本として、御言葉に従わない夫、「福音なんか信じない。聖書にある事なんか聞かない」というような夫であっても、無言の行いによって、神の子とされ、(KJVでは、勝ち取られて行くと書いてある)

この御言葉は、尊重しておくべき。

 

3: 2それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 

御言葉は正しい。

妻がクリスチャンで、夫が未信者というケースが多いが、夫は妻を見ている。

勝ち取られて行く夫は多い。

妻の無言の振る舞いは結構強い。 夫は、良くも悪くも見ている。

無言の行ないと書いてある事は、「言葉が無い」 ここでの「言葉は」ギリシャ語でロゴス。

「言葉は神である」という「言葉」が使われている。

我々は、聖書の言葉を持って行って伝道したい者。

聖書の言葉にこそ力があるが、場合によっては用いられない事もある。

我々のキリストにある歩みが正しければ、その無言の振る舞いが聖霊にある時に、結構人に影響を与える。夫と妻の関係にとどまらない。

相手が誰であれ、無言の振る舞いが、影響を与える。

伝道でなくても、我々のちょっとした歩みが影響を及ぼすことが大いにある。

み言葉を語れない時でも、歩み、接し方、言葉、それらを通して勝ち取られていくことが大いにある。

 

3:3あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

3:4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

3:5むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。

 

ここに書いてある事は、外的な事に、あまり注意を払わずに、内面的な事柄、内側の霊など、そういった事柄に力を注ぎ、それを飾りにしていく事が大切。

それと共に、喩えの意味合いも含まれている。

ここで書いてある事。 金の飾り=信仰。 

「髪を編む」の喩え、原語の意味合いは、イエス・キリストが十字架にかかられた時の「いばらの冠」という言葉が出て来る。「編む」という事。いばらの冠も編まれていた。

喩えの意味合いが言っている事は、少しニュアンスが違っていて、クリスチャンの外面的な事。

キリストの苦しみを負っている、金の飾り、信仰をこの様に立派に持っている、そういった見える。それはあくまでも外面的な事。

でも、

 

3:4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

 

一つは、霊。 柔和で穏やかな霊。これは聖霊の働き。それを得ていく時に、朽ちることの無い、

 

1コリント

15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

「死者が朽ちないものによみがえり、」 これは復活の事。

朽ちないものは、永遠の命に関係している。

「朽ちることの無い」とはまさにこの事。

これは、復活、永遠の命に関係している。

我々が、本当に神の霊、また御霊の実をきちんと結んでいく時に、それは「朽ちることの無い」永遠の命に通じる。

逆に外面的なものに、マタイの27:27の、「外側は白く塗られた墓」、こういったものに通じる。

1ペテロ3:4では「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」と言っている。

「隠れた」という意味を見て行きたい。

 

マタイ

6:6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

ここに書いてある「隠れた所」と同じ言葉が「隠れた人柄」において使われている。

人間は、クリスチャンであったとしても、どうしてもクリスチャンの外側に注目してしまう。

しかし、言わんとしている事は、神の前に尊く価値のあるものは、内側の人、内側の霊など、そういった事柄なんだと言っている。

ここで書いてあるように、「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

隠れた人(内側の人)。内側の霊とか、どういう霊によって歩んでいるか、内側に御霊の実を結んでいるかなど、まさに、父なる神は注目している。

外側より、ずっと隠れた所に、神は、注目している事であり、神の前にはこちらの方が価値があるという事をペテロが言っている事。

父なる神は、こちらの方を重視している。

1ペテロ3:4後半に、「心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」

まさにこれは、聖霊の実を結ぶ事。

これこそ、神の御前に価値のあるものだと言っている。

ここで言っている事は、神が、大事にする事と、人が結構注目することは、違うという事を言っている。

 

1ペテロ

3:3あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

 

金は信仰。見える信仰の偉業だとか、癒しの業だとか、すごい信仰の器がやって来たとか、何千人とクルセードに人が集まるとか、そういう外面的な事を見てしまう。

それらに全く価値が無いとは言わないが、むしろ神は、内側の霊の事に関して、どういう霊に導かれているのか、そちらの方が神の前に価値のあるものだと言える。

なので、認識を新たにしていきたい。

神によって裁かれ、神によって、復活の命をいただくので、人が結構注目する外面的な事柄よりは、神が、真に、価値あると思っているものに、我々の注意をシフトしていくべき。

それが賢い歩みであり、意味のある歩みだと、その様に語られていると思う。

 

3:4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

 

ポイントは、「むしろ、柔和で穏やかな霊」  これは聖霊の働き。

御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容・・・・などに通じる。

御霊の実を結んでいく事は、朽ちる事の無いものを持つということは、一瞬にして朽ちることの無いもの、これは復活の命。  それに通じて行く。

神が、価値あるものと思っているのは、往々にして、場合によっては人間にとってはどうでもよいものであったり、それ程大変な事では無かったりする。

逆に目に見える形で、人がたくさん倒れたとか、突然歯が金歯になったとか、すごい癒しの業が出たとか、そちらの方に注目してしまうかもしれないが、神が、価値ある者と思っているのは、往々にして人が思っているものとは違う。そして、神が価値あると思っているものに力を注いでいく事にポイントがある。

 

ガラテヤ

6:7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

6:8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 

ここで書いてある事は、クリスチャンであろうと、なかろうと、人は、種を蒔くという事。

ある人は、自分の肉のために蒔く。

しかし、霊のために時間を割く人もいる。それが、御霊のために蒔く人。

そして、それぞれ、刈り取りをする。

 

6:8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 

どんな風に時間を使おうとも、どこに種を蒔こうが自由だが、御霊のためにまくという事は、御霊の実を結んでいく。これは永遠の命に通じる。

それが神の前に尊い。

なので、人は、往々にして、外側の事に目を止める。

クリスチャンでも人間的な標準で、いろんなことを見てしまう。

大事なポイントは、実にある。

 

マルコ

4:26また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

4:29実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 

ポイントは、かまを入れるという事。

黙示録にもある。  これは、携挙の事を言っている。

携え挙げられて、永遠の命に入って行く人の事を言っている。

苗があっても苗は刈り取られない。穂も同様。

しかし、穂の中に実が入って熟すると、人はすぐかまを入れる。

実は、刈り取られる。実は御霊の実に通じる。

人も、米の収穫の時、根っこを刈り取るのではなく、お米の実の部分だけを刈り取る。

神が重視しておられるのは、実だけ。御霊の実という事。

なので、我々は、クリスチャン生活において、どこにポイントを置いて行くかが非常に大事。

神はまさに、御霊の実、聖霊が根付き、聖霊によって歩んでいるかを非常に重視されている。

その実が刈り取られて行くのであって、御霊の実の無い人は刈り取られないという事。

 

1ペテロ

3:6たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。

3:7同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

 

ここでは、夫に対する忠告が書かれている。

クリスチャンの夫である時に、妻に対して何を気にしなければならないかというと、一つは、弱い器であるとわきまえていく。

一般的には男性の方が背が高く頑丈だが、外側だけでなく、霊的な面でも、女性の方が弱く、惑わしなどが来るので、それをわきまえて、カバーして、クリスチャンの夫は執り成して歩んで行きたい。

いのちの恵みを共に受け継ぐと、御国も共に受け継ぐ。

そして、「尊敬しなさい」と書いてあるので、その通りにしなければならない。

一般的に、クリスチャンの夫である場合、妻の事をちゃんとケアしないと、妻に妨げられる可能性がある。 妻が世的になってしまい、夫が祈っていても「そんなことしてないで・・・」などと妨げられる。 それは、夫の努力不足という事もある。

共に御国を受け継ぐための努力が足りなかったという事もあるので、そういう場合は反省して、歩むべき道に入って行く。

 

3:8最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。

 

こういう事は大事。

「心を一つにし、」とあるが、これも大事。

「謙遜でありなさい。」

高慢な人と一緒にやって行くのは抵抗がある。

また、憐れみ深くありたい。

 

3:9悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

 

「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。」とある。なので、クリスチャン同士でも、悪を持ってくる人もいるかも知れないが、悪をもって悪に報いたりする事のないようにしたい。

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

祝福を受け継ぐために。

 

3:10「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、

 

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごす」ということ。

「いのちを愛する」というのは、永遠の命に通じる。

 我々が本当に永遠の命を得て行くなら、永遠のいのちを得て行く歩み、そういう道を求めたいと思うなら、舌を抑えて悪を言わず、くちびるを閉ざして、偽りを語ったりしないという事。

舌を抑えず悪を言うというのは、ののしったりする事。それでは、永遠の命が危ない。

自分の舌を抑えてコントロールし、往々にして悪い言葉が出やすいが、それをきちんと押さえて行かないと、極端な話、得られると思っていた永遠のいのちが得られなくなってしまう、という事が、まさにここに書いてあるので、覚えておく。

 

マタイ

5:21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

ここで言っている事は、21節で言っている様に、一般的に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」

この世では、一般的に悪い事というのは、人を殺してしまうとかだが、その前に意地悪な事をされたとか、叩かれたとか、「てめえはバカだ。死んでしまえ」と言われたとか、これでは警察沙汰にはならないが、イエス様は、違う事を言っている。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。」 この辺りは、前の、人を殺す事に通じる。

兄弟に向かって腹を立てる(注釈には「理由なく」)ことは、神の前に裁きに入って行く事になる。

「『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。」

やはり、裁判に入ってしまう。

『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

ばか者と言ったら火の池に投げ込まれるという事。

ここで言わんとしている事は、我々の認識と違って、言葉というものに関して、我々の一般常識と違って、神の前に、我々の語ったののしりの言葉とか、悪い言葉は、神の前に大きく扱われる。    神の前には、殺人と同じ罪。

我々は、クリスチャンであると言っても、結構この世の常識に入っている。

しかし、主イエス様の言葉を無視してしまってはならない。   裁かれてしまう。

聖書に書かれている事は、気に留めておくべき。

命を愛する者は、唇をコントロールする。 コントロールされているものは良い。

しかし、コントロールされていないという人は、舌を抑えること。これは、永遠のいのちに通じる。

過去の事は仕方がない。

これからは、悔い改め、舌を押さえて悪を言わず、「能無し」とか「ばか者」とか言わない事。永遠のいのちを求めるなら、悪口を言わない事。

聖書は、大事な事をぽつんぽつんと言う。

それで、見過ごしてしまう。

しかし、確かに書かれているので気を付ける。

悪口は殺人と同じ罪。

我々は、神の言葉に従って、イエス・キリストによって裁かれるので、気を付けなければならない。   書かれた事は大事な事柄。