Ⅰペテロ4:919           2015.4.12

 

 

4: 8何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

4: 9つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。

 

つぶやいたり、文句を言ったりするのはよくない。

「互いに親切にもてなし合いなさい。」と書いてある。

なので、ともに、クリスチャンの兄弟姉妹の事に気を遣ったり、励まし合うのが良い事。

逆に教会の中で非難しあったり、互いにいがみ合ったり、「教会なんか行きたくない」などというのは良くない。

 

4:10それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

 

それぞれが賜物を受けている。

どの様な小さなクリスチャンであっても、我々は神の賜物を受けていると考えるのがよい。

「賜物」という言葉。 ギリシャ語では「カリスマ」

意味合いとしては、神の恵みの送り物。  霊的な贈り物。

言わんとしている事は、神から何も受けていないと感じても、何かしら賜物を受けていると理解する。   「何もない」というなら不信仰。

賜物に気づかないだけで、実際は、ある!

それぞれの人が、持っている、神様からの霊的な恵みを持って、互いに仕えて行くというのがポイントであり、教会。

それぞれ、役割が違う。 聖書にあるように「ある人は目であったり耳であったり」、それぞれ賜物が違う。

小さな教会であっても、皆がそろって全く同じ奉仕をするわけではない。

聖霊にあって、それぞれ違う奉仕をする。

奉仕をしていく事は、仕えていく事。

聞いて行く人は、教えられていく。

我々もそんな形で仕えて行く、という事を覚えておく。

それは、教会に仕え、また他の人々にも仕えて行くという事。

語っている人にも恵みであり、聞いている人にも恵みである。

信仰、確信が与えられたりする。

 

4:11語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 

「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」という言葉。

「神のことばにふさわしく語り」・・・神託という言葉が使われている。

 

使徒

7:37このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と言ったのです。

7:38また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの父祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみことばを授かり、あなたがたに与えたのです。

 

「みことばを授かり」という言葉が、今のペテロの手紙で使われている、「神託」、神の言葉を預かるとか、そう言った意味合いで使われている言葉。

モーセはまさにそう。

イスラエルの民は、一体神様がどういう事を語っておられるか、どんな風に思われておられるか、どういう事をイスラエルの民に言っておられるか、それぞれの人は、自分では分からない。

しかし、モーセが代わりに神の前に行って、「こうだ」とか「こういう言葉を守れ」とか、そう言う言葉を預かって来る。「生けるみことばを授かり」

神のみ言葉をもらって来て、それを民に語る。

ここで使われている原語、「御言葉を授かり」という、まさに同じ言葉が、

Ⅰペテロの4:11において、「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り」・・・これが同じ言葉が使われている。

その様に見ると、集会の中で神の言葉を語るというのは、結構大事な奉仕。

それは、礼拝の中でメッセージをする時に、単に、注解書の言っている事をそのまま忠実に語るという事では済まない。

何故なら、言わんとしている事、言葉で要求されている事、「語る人あらば、神の言葉にふさわしく語り」  まさに、モーセが神の前に行って、イスラエルの民に神が一体何を語っておられるか聞いて来て、忠実に語るということを求められている。重大な事が求められている。

だから、礼拝でメッセージをするとか、神の言葉の奉仕をする時に、その様な事が求められている。 神学的に正しいとか、神学書の言っている通りだとか、注解書と全く矛盾しないとか、

そんな事は問題ではない。

求められている問題というのは、神の言葉を預かって、それをきちんと語れるか、という事柄。

大事な事が語られている。

人前でどう、という事でなく、神の、ペテロの手紙で要求されている奉仕を行なって行きたい。

例えていうなら、公の教会は崩壊する。これは、神託、神が宣言している事であり、神がはっきり断言している事を語る。終わりの時に、宮の土台である使徒の教え、預言者の教え、隅のかしら石である、イエス・キリストさえも、宮から取り除かれて、一つの石も残らない日が来ると、神が神託を与えて下さり、宣言されており、言明していると感じる。

そういう意味合いで、ほんの少しでもそういう働きを預かれるならば、この働きの一端を担う。

また、それに伴って、明らかに神が、仮庵について語っているように、「屋上にいる者は、上着を取りに、家の中に戻ってはならない。」 要するに、背教の教会に戻ってはいけない、「仮庵に留まれ」という事。

「語る人があれば神の言葉にふさわしく語れ」

日本語だと少し弱いニュアンスだが、原語の意味合いは、モーセが神の言葉を授かって、それをそのまま語れと言うように命じている。                 

神の奉仕、御言葉の奉仕に与れれば感謝な事だが、その際は、こういった事が要求されている。

「奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」とある。

奉仕をするというのは、こういう意味合いがある。

原語の意味合いでは、「テーブルに仕える」

テーブルに仕えるというのは、レストランで言うウェイター、ウェイトレス。

なので、教会の奉仕というのは、基本的に人に仕えて行く働きだという事を覚えておくべき。

レムナントの奉仕も、食卓に仕える奉仕。

人間的に言えば、ウェイターやウェイトレスの奉仕をしていくという事。よくよく覚えておく。

証があったり、礼拝したりなど、そういうサービス。

月刊バイブルなどを配るというのもサービス。

仕える中で、我々は、受けるべき報いを受ける。

面白い事だが、教会の奉仕、働きに関しては、レストランでサービスしたり、ウェイターやウェイトレス、そういうイメージの言葉がいろいろ出て来る。

奉仕とはそういう者だという事を覚えておく。

でもそれに対して、大きな報いが来る。

 

Ⅰペテロ

4:12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

 

4:13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

 

一つは12節に書いてあるように、火の試練が、試みるために来るという事。

これは、終末の日に関連して、度々聖書が語っている。

「あなたがたを試みるために」と書いてあるように、我々は、世の終わりの時に、多くのクリスチャンが試みられる。

試みという事は、簡単に言えばテストをするという事。

世の終わりの時、はっきりしなければいけないのは「全入」ではないという事。

「クリスチャンであれば全員世の終わりの試練を経て天の御国に入る」という事はあり得ない。

ある人は試験を通過して、入るべき御国に入るが、ある人は、残念ながら試験を通過できない。

聖書は、そう言う事を一貫して語っている。

「どんなクリスチャンも、問題なく天の御国に入れる」と言うのは、聖書を知らないから。

マタイの13章には、喩えで、良い麦と毒麦がある。

毒麦は集められ、火に投げ入れられる。

良い麦は確かに倉に入る。

火の試練とは、溶鉱炉のようなものだから、それを通して不純物を燃やしてしまい、純粋な金だけが残る。   かなりシビアな試みの時が来る。

なので、今の時代に大事な事は、我々は、試験前の受験生のようなものだという事を覚えておく。

そういった試験すなわち試練の時が来るというのが、聖書が前もって語っているので、ちゃんと用意した人は、それを経て、永遠のいのちを得る。

しかし、前から言われていても、何の用意もしない人は・・・・。

そんなふうに聖書に書かれているので、備えをするというのが基本なのであって、しかるべき艱難時代の事を大変な恐怖に思い、恐れおののくのも間違い。

歩みにおいても、祈りにおいても、しかるべき備えをなして行くのが正しい。

その中で、何か「思いがけない」、という言葉。

「思いがけない」というのは、異邦人とか、旅人とか、寄留者とか、そんな言葉と関係する。

我々が受ける試練に関して、この言葉は暗示しているように思う。

我々は、外国人とか、異邦人とかを受け入れられない。そういう意味で、我々が終末の日に受ける試練の一つは、我々は仲間に入れられない、という試練。「あの人は異端だ。正統派のキリスト教じゃない」「あの人はおかしな人だから、我々クリスチャンは、もうあの人と関わりを持っちゃいけない。」など、そういう意味。

日本語の思いがけないは、そこまでのニュアンスは感じないが、原語では違う。

何でもかんでも仲間外れになったら気になってしまう。そう言う人は弱い。

その様な事があっても、主に従って行く強い心があるのが正しい。

逆に真理も何も捨て去り、「皆と同じ歩みをしたい。自分は嫌われたり、仲間外れにされるのは嫌だ」とかは、弱みとなり、引っかかってしまうので、そこは見て行きたい。

なので、ここでも(12)書いてある事は、やはり、世の終わりの時は、試練、試みが来るという事。

聖書は一貫して同じことを言っている。

 

4:13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

 

我々は艱難に遭うかも知れないが、それに関して、誰も艱難とかはいやだが、聖書的な視点から物事を見るべき。

ペテロは逆の事を言っている。

「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。」という事。

ラッキーな事だと言っている。  やけくそで言っているのではない。

「それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」と書いてあるように、はっきりしている事は、この時、正しくキリストについた人々は、苦難に遭う。

やがて、世の終わりには、教会の背教は極端なものになり、反キリストが、立ってはならぬ所、キリストの座に立ち、背教の教会は反キリストを拝むようになり、逆にイエス・キリストはインチキだ、ペテンだなどという事になり、その時に我々は、キリストのゆえに苦しみに遭うが、

それは、ほんのしばらくの事。  それは3年半。

その後に、キリストの再臨がある。

3年半の始めと終わりについて。

始めは、荒らす憎むべき者すなわち反キリストが、立つ日。

終わりは、イエス・キリストの再臨。これをもって、艱難は終わる。

「キリストの栄光が現われるとき」とは、再臨の事を言っている。

その時に、形勢は逆転する。

艱難の3年半の間、我々は迫害を受けたり、ひどい事を言われたりするが、キリストの再臨の時に大逆転する。

どっちを取るか。

ここで、「喜び踊る」というのは、

 

マタイ

5:11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

5:12喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 

この御言葉と同じ言葉が使われている。

キリストのゆえに迫害を受けるというのが、ニュアンスとしてある。

キリストのゆえに苦しみ、迫害に遭うという事は、これは御国の奥義だと思うが、裏に、暗黙の了解としてこの事が書かれている。

なので「どちらか。」

世の終わりの時というのは、3年半の間、背教の教会で、反キリストを拝み、のほほんとしているが、キリストの再臨の時、反キリストと共に火の池に行くか、同じく3年半の間、主にあって、ずっと留まって、キリストの再臨の時、「喜びおどる」方に入るか。

中立はあり得ない。

そういう意味では聖書は、単純で簡単な事が書かれている。

なので、この選択に関しては、態度を鮮明にしなければならない。

 

Ⅰペテロ

4:14もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 

と書かれているので、これは必須。

世の終わりには、キリストの名のゆえに非難される。

しかも教会へ行きながら、その中で。

驚くべきことが、世の終わりには起こる。

聖書の別の場所には、「あなたがたは、私の名のゆえに、全ての人から憎まれる。」と書いてある。「全ての人」とは、教会のクリスチャンも含める。

あり得ない事が世の終わりには起こる。

 

4:15あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

 

と書いてあるように、こういった人々が、世の終わりの時には出て来る。

人殺し、盗人・・教会の中に出て来る。

兄弟を憎む者は人殺し。キリストのみ言葉を盗む者が盗人。正しいクリスチャンに干渉して、「あなた達はカルトだ。」というのが、みだりに他人に干渉する者。

これらはダメ。

 

4:16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。

 

例外的に我々は、キリストの名前のゆえに恥を受けたり、苦しみを受けるなら、何一つ恥じることは無い。

正々堂々としていればいい。

 

4:17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

 

世の終わりの時というのは、神の家が裁かれる時。

教会はキリストの体なので本来は裁かれない。

教会と言っても、我々が知らなければならない事は、ずっと初代教会と同じではない。

これは聖書が語っている事なので、この概念は覚えておく。

若い時には、夫であるキリストに仕えていたが、歳をとると、いろいろ問題が起きて来る。

聖書の他の箇所には、「俗悪な年寄り女」の事が書かれている。

残念ながら教会は変わって来る。

終わりの背教の時代には、神の裁きが来る。

どんな時代の教会にも神のさばきが来るわけではない。

しかし、世の終わりの時は来る。

 

4:18義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。

 

世の終わりの時、教会が背教になった時の裁きの日に関しては、我々が理解しなければならない事がここに書いてあるように、「義人がかろうじて救われる」日だという事。

こういう日が終末に来る。

「義人がかろうじて救われる」パターンというのは、旧約聖書にある。

ノアの時、ロトの時がそう。

 

Ⅱペテロ

2:5また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。

 

この時の義人は、ノアを含めて8人。  やはり、義を述べ伝えた。

彼らは、大洪水の中でかろうじて救われた。

箱舟に入らず、ノアとその家族以外の人は、皆、洪水で滅びてしまった。

なので、終末の日に、教会に来る裁きは、大変なもの。

義人がかろうじて救われるような裁きが、教会に来る。

世の終わりの時の教会の状態、背教、裁きは、普通の教会時代の事と比べると、わけが分からなくなる。

そういう意味で、教会というのは、時代とともに変わって来ることは覚えておく。

同じ人でも、歳とともに状態が変わって来る。

同じように教会も変わる。それを理解しないと、これらの事は、何もわからない。

神の家は、教会。

その時には、ここに書いてあるように、ノアの洪水の時のような事になる。

その時に、洪水を免れて命を全うするのは、義を述べ伝えたノアたち8人。

我々が、世の終わりを経て、たましいの救いを得る重大なヒントがある。

そのような終わりの時代であり、そしてノアの時代には、右も左も悪い人達だとか、道を踏み外したとんでもない人ばかりだけども、その時ノアたちの命を救ったポイントというのは、「義を述べ伝えた」とあるように、正しい事を伝えていく事。 沈黙はダメ。迎合もダメ。

背教の時代にあっても、義を述べ伝える。神の裁き、神のみ言葉に関して語って行く。

レムナントは、主の導きの中で、ニュースレター角笛などで、語って行くという事。

教会に裁きが来るとかを語って行く。

怒って、「二度と送るな」と言って来る教会も結構ある。

義を述べ伝えている。 これはノアの箱舟に通じる。

また、我々の命を、洪水の日にも救うという事を覚えておく。

あくまでも義を述べ伝えるのであって、甘い言葉を述べ伝えるのではダメ。

大抵嫌われる。

 

2:6また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

 

これから教会は、ソドム、エジプトと呼ばれる都になる。

ソドムのポイントは、同性愛。

教会が同性愛を受け入れつつあるが、これは滅びの前兆。

アメリカでは同性愛に対する反対をするクリスチャン、教会は、非合法化されつつあるが、それに引っかかってはいけない。その先は滅び。

 

2:7また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。

 

だから迎合をしてはいけない。

義人として留まる事。  そうすれば我々は、教会が、ソドム化、エジプト化したとしても、救い出される。

ロトの救いがそう。神の憐れみにより、御使いが手を引っ張り、無理やり救い出した。

我々も、同じような助けを得る。

 

2:8というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。

2:9これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。

 

なので、ロトの歩みにはポイントがある。

心を痛めなければダメ。

これらの事から分かるのは、義人は救われるという事。

正しく留まるという事。

Ⅰペテロ418節には、「義人がかろうじて救われる」とある。

そう言う時代が来る。 義人がかろうじて救われる。

だから、この箇所には明示されていないが、他の箇所を参照すると何を言っているか分かる。

聖書は、その箇所のみから解釈してはいけない。いろんな箇所を参照していくと、クリアに分かって行く。

これから、ノアの裁き、ロトの裁きの時が来る。

その時に、ソドムやゴモラにあったような裁きが来る。

裏返して言えば、教会が、同性愛を受け入れたり、この世を受け入れたりする時が来るという事。

その時には、義人がかろうじて救われるという、ロトの状態が再現するという事。

背教はすごく行きわたる。

その時のポイントは、ノアの様に義を述べ伝えたり、ロトの様に義を保つこと。

レムナントではもう何年も前から、角笛ニュースレターをだしているし、また、セミナーもやって来た。

ずっと正しく義を述べ伝えて来たけれども、これは永遠のいのちに通じる。

今のキリスト教界では、受け入れない事も結構ある。

怒って送り返して来るところもある。

怒って電話をかけて来る牧師も多い。

 

Ⅰペテロ

4:19ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。

 

義を行なって、尚且つ苦しみに遭っている・・・我々もそう。

失敗することもあるが。

しかし、義を行なって警告して、苦しみに遭うという事が時々ある。

その場合は恥と思ってはいけない。   それは、主に任せて行けば良い。

 

4:11語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

 

この箇所の後半でKJVでは、「彼らの間では、彼(キリスト)は悪く言われ、あなたがたの間では栄光です。」という言葉が入っている。  KJVでは入っているが、何故だか新改訳では抜けている。

ここは、結構大事な事。

何故ならやはり、世の終わりの時の苦難とか問題というのは、教会の中でキリストが悪く言われるという事。

我々もキリストにどこまでもついているので、同じような非難が来るというのが、大きな根本的な問題。

この言葉が日本語の訳についていればはっきり分かるのだが、入っていないので、今一つ分からない。

世の終わりの時にはキリストに固く着くが故に、苦難に遭うという事。

このことは、聖書のあちこちで暗示、明示がされている。

こういったポイントは、正しく捉えて、歩むべき道を歩んで行きたい。

キリストの名のゆえに、憎まれる時が来るという事を心に留めて行きたい。