2015.4.19    Ⅰペテロ5

 

5: 1そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。

 

長老という言葉。  長老は原語の意味で、「古い人」「歳をとった人」というニュアンス。

これを見て行くと、

 

5: 2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。

 

だから、牧会的な事をする。  教会の中において、この様な役目の人がいるというのが、聖書がまさに語っている事。

教会の中で、長老という、牧会する立場の人と、他の、牧会される立場の人がいるのが事実。

この世の学校でも、先生と生徒がいる。  そういった区分というものがある。

聖書に書かれている「区分」という事は、尊重すべき。

1節に「やがて現われる栄光にあずかる者として、」という意味で、長老のような任、牧会する任に当たったら、きちんとやって行くなら、主の栄光に与るようになる。

与るというのは、どういう事かというと、共に、恵みに与るという事。

きちんとやるなら、恵み、栄光に与る。

2節「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。」

「牧しなさい」とは、言葉の意味合いは、「食事を与える」というふうにKJVにかいてある。

だから、我々がそういった牧会的な事に与るなら、女性であろうと、いつまでも、「昨日救われた」という位置ではなく、23年と、だんだん経験を積むことによって、後から救われる人を牧するという事に意を用いるという事が大事。

ここに書いてある事は、牧するというよりも、「食事を与えよ」と書いてある。

なので「食事を与える」という事を、我々は、主が召して下さったなら、目をとめていく。

ちゃんとした食事を与えるという事。

イエス様が十字架につけられた時、「苦味をつけた葡萄酒」を持ってきたり、また、詩編に預言されている事として、「彼らは、私の食べ物として苦味を与えた」とか、「渇いた時に、酢を与えた」など、これは、喩え。

ちゃんとしたものを与えていないという事。

だから、我々もその様に言われないように、主にあって、何とか御心の内に御言葉を語ることが出来る。 これが食事を与えるという奉仕。

忠実にやって行けば大丈夫。主が、それぞれ必要な事を語って下さるので、大学者になる必要もない。

2章「強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。」

自分から進んでそれをなす事は大事。

もう一つは、「卑しい利得を求める心からではなく、」と、書いてある。

場合によっては、牧会は、そういった方向へ用いられていく事もあるかも知れない。

(*金儲けなどの手段になってしまうのか?)

人がたくさん来ると、利得を求めてしまう事もあるかも知れないが、それは良くない。

 

5: 3あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

 

その「割り当てられている」という言葉は、日本語ではいまいち。

KJVでは、「神の資産」と書いてある。

言わんとしている事は、牧者は羊を牧するが、それは、「神の資産」だという事。

我々が羊を牧するような奉仕に入って行くなら、これは尊い事。

しかし、一つ気をつけなければならない事がある。それは、「自分の資産」ではないという事。

なので、「神の資産」、お預かりをしているものなので、そういった心構えでやって行けというニュアンス。

神の資産は、神ご自身が牧しておられるので、そういう意味合いでは、主が、その人をどの様に牧しておられるかという事を尊重していく。

同じような言葉が、イエス様が、ガリラヤ湖の湖畔で、ペテロに会った時に、「シモン、私を愛するか」と言っておられる。ペテロが「主よ、私があなたを愛している事はご存知です」と言った時、イエス様は、「私の羊を飼いなさい」と言われた。

「私の羊」=「キリストの羊」  要するに自分のものではなくイエス様のもの。

主の導きの一端を担うのがただしい。

3節「その割り当てられている人たちを支配するのではなく、」とある。

この言葉を見て行きたい。

「支配する」という言葉は、

 

マタイ

20:25そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

 

ここに書いてある「支配」が、まさに同じ言葉。

 

20:26あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

26:27あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。

26:28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 

この様な歩みをして行けという意味。

逆に25節にあるように「異邦人の支配者たちは彼らを支配」するような方法は良くないという事。

こう書いてあるのに、羊の上に、かなりの強権を発揮するような教会、教師は無きにしも非ず。

ペンテコステ系には、そんな教会が多い。しかしそれは、異邦人の間でなされている支配の方法なので、御心は無い。  まして、イエス様ご自身が「偉くなりたい者は、皆に仕える者となりなさい」と言われている。

そうではあっても、教会の中は一筋縄ではいかない事もある。

色々、分裂を起こしたりする者の場合には、権威を用いる事もある。

線引きをしなければならない事もある。

しかし、基本的には、「仕えて行く。」

むしろ、群れの模範となりなさいという事。

Ⅰペテロ

5: 4そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。

 

我々も、それを基本としていく時に、栄光の冠を受ける事になる。

 

5: 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

 

若い人たちは、結構従わない事が多いが、従って行く事が正しい。

互いに謙遜を身に着けるのも大事な事。

聖書を読んでいてわかるのは、神様は本当に高ぶる者に敵対するというのが、一貫して書かれているという事。  詩編、イザヤ書、エレミヤ書、そのような記述ばかり。

主ご自身も、へりくだった方。 ご自身、神の子であられたのに、それを捨てて卑しい人の姿をとって来られた。

我々も、謙遜な歩みをして行きたい。

 

5: 6ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

 

この世においては、こちらがへりくだると、増々えばる人がいる。

しかし、我々クリスチャンのあるべき姿は、6節にあるように「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

へりくだっていれば、神がちょうど良い時に、高くしてくださる。

栄誉も謙遜も、それは主から出る。

 

5: 7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 

思い煩いというのは、大抵の人につきもの。

これは、信仰的には良くない。何故なら、本当にあるべき姿は、思い煩いを一切、神にゆだねるというのが正しいから。

心配していくというのは、神の前にはあまり良い事ではない。

逆に、神にゆだねて行く。

「いっさい」という言葉。 言わんとしている事は、KJVでは「全ての思い煩いを神にゆだねよ」というニュアンス。

一切をゆだねるのが聖書的。

現実に問題はあるけれども、「それを見るな」という事ではなく、「神が、あなたがたの事を心配して下さるから」ということ。

その様に聖書は約束している。 これを書いたのはペテロだが、テモテの手紙に書いてあるように、聖書は、神によって霊感された書物。神の認証つき。

だから、「ペテロが書いたから」だとか「パウロが書いたから」だというのは、あまり気にしない事。意味の無い事。 

何故なら、ペテロが書いたとしても、聖書に入った時点で「神の言葉」だから。

「神が心配して下さる」「神がケアして下さる」・・・これは事実。

私たちが、いろいろ心配するような体質かも知れないが、徐々に、「神に重荷をゆだねる」体質に変わるように求めて行く。  すると段々と変わってくる。

生まれつき心配性はあるが、この世では良い事の様に思える事もあるが、聖書的にはあるべき姿ではない。また、あるべきクリスチャンの姿ではない。

それは、信仰が無く、神に信頼してないということなので、主にゆだねるという訓練をして行きたい。

実際に、自分で考えずに主にまかして行くと、いろんな事が好転して来る。

 

5: 8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 

「身を慎み、目をさましていなさい。」とある。

「身を慎み」という言葉。この意味合いを調べると、「素面(しらふ)でいなさい」すなわち「酔うな」ということ。

この箇所は、日本語には出てこないが、酒が関係している。

酒に酔っていない状態。それを素面(しらふ)という。

積極的に酒を飲む事はすすめない。

世の終わりに大事な事は、酔っ払わない事。

酒を飲む事に関しては、喩えの意味合いがある。

酒を飲む事に関して、「変な霊の惑わしに入るな」という事が、非常に大事。

霊的な事柄に関して、世の終わりについて、繰り返し、警告している。

これも、その一つ。

具体的には、例えば何でもかんでも、リバイバル聖会がある、また、アメリカからすごい器が来たからと言って、そこへ行き、変な霊を受けて来ないという事。

「しらふ」でいろ、とはそういう事。

なのでよくよく気を付ける。特にペンテコステ系の人。

ろくに祈らないで、何かというと、そういう集会へ行って「恵まれる」というけれども、結局変な霊を受けてしまう可能性がある。逆にきちんと祈る習慣をつけていって、聖霊に触れるという習慣をつけていった方が、どれほど良いか。

身を慎み=しらふでいよ。

その後で、目を覚ましていなさいという言葉がある。

「目を覚ましていなさい」という言葉が、終末に関連して度々出て来る。

この事も見て行く。

他の箇所で、「目を覚ます」という言葉が使われているのが、

 

マタイ

24:42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 

ここで、「目を覚ましていなさい」という言葉がまさに使われている。

 

24:43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

24:44だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 

自分の主人がいつ来るか。明らかにこれは再臨の事。

再臨の主が、いつ来るか分からないという事。

キリストの再臨に関連して、43節では泥棒のことが書いてある。

この事は、喩えや意味合いを示す。

そう言った意味合いで、我々が目を覚ましているというのは、どういう意味か、何に対して気を付けていなければいけないか。

泥棒が入って来る事に対して、目を覚ましていよという事。

泥棒が知らない間入って来た時に、キリストの再臨に関して、色々な教理、教えが、ひっくり返されてしまう可能性があると理解する。

喩えの意味合いでは、泥棒、盗人というのが、聖書の中で度々使われているのは、「み言葉を盗む」という意味合い。

なので、言わんとしている事、なぜ、キリストの再臨がいつ起こるか分からないかと言うと、それは、神の言葉が盗まれるからだと理解できる。

あらゆる御言葉、(どんな御言葉でも盗まれる可能性はある) 特に、聖書の中の、キリストの再臨や終末の言葉に関しては、泥棒が盗んで、別の言葉に置き換えてしまったり、意味合いを変えてしまうという、そういう恐れがあるから目を覚ましていなさい、泥棒に気をつけよ、という意味。そういった事が言われていると理解できる。

現実に則すると、この事は結構当たっている。

キリストの再臨の言葉が盗まれて、主が元々、御言葉に関連して、「世の終わりには艱難が来る、クリスチャンは艱難に遭うから、その備えをしろ」と言われているが、み言葉が盗まれて、

「クリスチャンは艱難に遭ない」という事になっている。

これは、御言葉が盗まれている状態。

また、主は言われた。

マタイの24章で、世の終わりの事に関して、宮の崩壊のことを語られた。

根本的な崩壊が来るということ。

喩えを通して、教会の崩壊、土台は使徒や預言者。隅のかしら石はイエス・キリスト。

教会の中からペテロやヨハネが言ってる教え、御言葉。パウロが言った言葉も取り除かれたり、また、隅のかしら石たるイエス・キリストの救いさえ、取り除かれる時が来るという事を預言していたのだが、その御言葉は盗まれている。

今のキリスト教会は、御言葉を盗まれた状態なので、「宮の崩壊というのは、文字通りの事。

ただ、問題なのは、エルサレムに行っても宮が無い、これから第三神殿が建つ事にしよう。その第三神殿が崩壊したらその後でキリストの再臨があることにしよう。」という、冗談みたいな話が行き渡ってしまっている。

そして、多くのクリスチャンがそれを信じている。

御言葉が盗まれている。

他の言葉も盗まれている。「獣の国はEU」など。  結論としてキリストの再臨は、全然先だと思っている。

そういう意味合いで言うと、彼らは、「家の主人がいつ帰って来るか分からない」

 

24:42だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 

とある通り。  こういった事はよくよく理解しておく。

世の終わり、特に、キリストの再臨に関連しては、「どろぼう」に関して強調している。

 

24:43しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

 

家の主人・・・家は、教会。主人は、牧師だったり、リーダーだったりする。

ここで言われているのは、おめおめと、泥棒が家の中に入って来るという事。

そして、御言葉を盗んでいくという事。  これは実現している。

今のキリスト教界の現状は、すっかり泥棒に盗られてしまった。あの御言葉も、この御言葉も。

インチキな教えにすり替えられているのに、誰も気づかない状態。

この御言葉は、既に、あらゆる形で成就している。

終末のみ言葉に関しては特にそういう状態。

あれも盗まれ、これも盗まれ、結局どういう状態か分からなくなっている。

この事が、言われているように成就している。

 

Ⅰペテロ

5: 8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

 

敵である悪魔。

クリスチャン生活というのは、敵なしで、悠々と走って行けるわけではない。

敵がいる。  我々は、永遠のいのちを得たいのだが、執拗に妨害したり、どこまでも訴えたり、

何とか転ばせようとする敵がいると、聖書は言っている。

この、「敵」を見て行く。

「敵」という言葉は、ギリシャ語で、「アンティディコス」という言葉が使われている。

 

マタイ

5:25あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。

 

ここにある、「告訴する者」がまさに敵。

なので、悪魔が我々の敵というところの意味合いというのは、ニュアンスとしては、裁判で、訴える人。「敵」というのは、「裁判所で訴える者」

もっとはっきり言うなら、「人には一度死ぬ事と、死んだ後にさばきを受ける事が定まっている」

裁きを受けるとは、裁判所に連れて行かれる事。 その時に色々不利な事を言って来るのが「敵」だということ。  サタンがある事ない事色々言って来る。

我々は、この訴える者を前にして尚且つ、永遠のいのちを得なければならない。

 

黙示録

12:10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

 

明らかにサタン。  9節では「悪魔とかサタン」とある。

サタンが日夜、訴えている。

この節を通しても我々は、現状を知らなければならない。

イエス様に対し、律法学者やパリサイ人が、色々難癖をつけている。

常にイエス様を訴える口実を探っていた。

これはサタンの型。

サタンは、律法に基づいて我々を訴えている。何の根拠も無しに訴えるわけではない。

 

マタイ

5:20まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

 

主のこの言葉は、こころに留めておくべき。

「決して天の御国に、入れません。」と書いてあるので、我々はパリサイ人の義に勝らなければならない。

 

5:21昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 

これがパリサイ人のレベル。

パリサイ人は、「人を殺してはいけない」というレベルは守っている。

さらに上のレベルは、

 

5:22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

これが、パリサイ人を超えたレベル。

我々は、パリサイ人のレベルでは、安心してはいけない。

兄弟に向かって、「能なし。」「ばか者。」と言ってはいけない。

サタンはそこを突いて来る!

主が言われた言葉を守る事。

また、飽きもせずに我々を告発するサタンがいる。

それを物ともせずに、義を貫いて、御国に入らなければならない。

そういう意味、狭い門。

 

Ⅰペテロ

5: 9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

 

これは、世のすべてのクリスチャンが、艱難時代、全ての兄弟姉妹が大なり小なり、苦難を通る。    この事は覚えておくべき。

 

5:10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 

ここでも「しばらくの苦しみのあとに」とあるように、艱難前携挙説は間違いであることがわかる。   惑わされてしまってはいけない。

 

5:11どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。

5:12私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。5:13バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。

5:14愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。