1ペテロ1:1525 2015.2.22


1:15あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。

1:16それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。


「聖」という言葉。 この言葉には、「分離されている」「離れている」という意味合いがある。何から離れるかというと、汚れたものから離れる。

具体的には、レビ記の11章に書いてある様に「ひづめが分かれているものでも、反芻しない者はダメ」「反芻するけれども、ひづめの分かれていないものはダメ」もちろん、「反芻もせず、ひづめも分かれていないものもダメ」である。

反芻とは、御言葉をよく読むという事。

また、この世と分離されていなければダメ。

ひづめが別れていないものは、汚れたもの。

「汚れた者」という御言葉が言わんとしている事は、聖書をよく読んでいても、この世にすっかり入ってしまっている者。 ひづめは分かれていなければダメ。

四つ足で歩き回るものもダメ。すなわち全て世についている。それはダメ。

これは、喩えの意味合い。

女性の月のさわりの時、また、出産した時、これも汚れているとあるが、これも喩えで書かれている。血は霊的なものの喩え。

変な霊や惑わしの霊、悪霊と関わり合いを持っている。占いをやっているなど、そういう人について行く者は汚れている。

こういったものから分離されている事が、聖書で言う「聖い(きよい)」「聖である」という事。

その様な事を心がけて行くと、我々は、主の聖い働きを担う事が出来るようになって行く。

「分離」は徹底した方が良い。

我々が聖くなることが「分離」だという事がポイント。

我々が本当に神の働きを担うつもりがあるならば、二つ良い事はない。

この世と神、両方に気に入られるという事は出来ない。

一つしか出来ない。

我々が聖い歩みを選んでいく時に、この世の楽しみ、汚れなどと離れる事になるが、それと共に、これらに勝る恵みがある。それは、神の働きを実際に担うということ。

本当に聖くないと用いられない。


1:17また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。


ここに書いてある事は、父なる神は、それぞれの業にしたがって公平に裁かれる。

ギリシャ語の原文には「人を偏り見ず」という言葉が入っている。

「人を偏り見ないで、公平に裁かれる」ということ。

神の裁きという事に関連しては、我々は、この観点は明確に持っていた方が良い。

相手がどんなに偉い人であろうと、そうでなかろうと、「人を偏り見ない」

例えば、教団の偉い人であろうと、カトリックではローマ法王など(地獄は無い、進化論は正しいと言っている)、公平に裁かれ、厳しいさばきに遭う。

マザーテレサがどんなに尊敬されていようと(彼女のした奉仕は立派であるが)、「マリヤはキリストと共同の贖い主」「イエス様以外にも救いがある」などと言っているので、やはり裁かれてしまう。

神は、人を偏り見ない。

人をそれぞれのわざに従ってとあるが、つまり「行ない」という事。

ここは、行ないについて書いてある。

神は、裁く時に、人をそれぞれの行いに従って裁くという事。

裁きのポイントは、聖書は繰り返し書いてあるけれども、「行ない」であるという事をよくよく覚えておくべき。

神の裁きの日に、厳しいさばきや罰を受けたりしないためには、やはり、「行ない」に関して注意を払わなければならない。

我々には一度死ぬ事と、死後に裁きを受ける事が定まっていると、へブル書に明確に書いてある。 明確に聖書に書かれている事は、人はその行いによって裁きを受けるという事。

クリスチャン生活の罠で、「信仰、信仰」と言っているが、勿論キリストを信じるべきだが、

それのみを持ってすり替えてしまうのは間違い。

ヤコブ書にあるように、アブラハムは、確かに神を信じたのだけれども、彼がイサクを捧げた時に、その行ないによって義とされた、というように、勿論我々はイエス・キリストを信じるが、行ないに目を転じる事は非常に大事。

行ないが正しくなければ、糺さないままで、神の前に出て行った時に、大変厳しい罰をうけてしまうという事は、よくよく覚えておくべき。 勘違いをしてしまってはいけない。


黙示録

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。


サルデスは、プロテスタントに関する預言。

サルデスとは「赤いもの」、不吉な名前。赤い者・・・エソウ、エドム。

長子の特権。 我々がクリスチャンとして、御国を受け継ぐ権利を生まれながら(新生した時)に持っている。しかし、エソウの愚かなところは、そのままにしていれば、父親が亡くなった時に受け継ぐべき遺産を、あろうことか自ら、赤いものになって、特権を売り払ってしまった。

これは愚かな事だが、サルデスの教会も愚かなものになる。

新生して、天の御国を受け継げるのに、それを受け継げないという意味合いがある。

サルデスに関しては、不吉な事がたくさん書いてある。


3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。


サルデスには例外的に、衣を汚さない、すなわち行ないが正しかったので・・・

ここでは、例外的に衣を汚さなかった者が何人かいる。大多数ではない。

大多数の者たちは、行ないが汚れていて、御国を受け継ぐにふさわしくない。

衣を汚さなかった人に関しては、5節において、主は「彼の名を命の書から消すようなことは決してしない。」と明言している。

しかし、大多数のサルデスというのは裏返して言うと、「命の書から名が消される」という事。

これは、長子の特権を失うという事に通じる。

命の書から名が消されるというのは大変な事。

世の終わりの裁きの時に、20章に、「それぞれの書に従って、行ないによって裁かれた。」と書いてある。 そして、「いのちの書に名を記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた」と書いてある。

サルデスの問題というのは、行ないの問題。

1節では、「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

プロテスタントというのは、命があって、神の前に正しいとは、ただ名目だけであると主は言われている。

キリストの言う事が正しい。

我々は、形だけやっていても虚しい。

なので、サルデス=プロテスタントの我々は、「要注意」である。

みんなと同じ事をやっていたら危ないというのがサルデス。


3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。


ここでも「行ない」が書いてある。

我々が、平均的なプロテスタントとして歩むなら、「生きているとされているが、実は死んでいる」というような判断を下されている。

そういう意味、我々は奮起しなければならない。

「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」

「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

よくよく、目を覚まさなければいけない。

そういう意味で、歩みをよく見て行きたい。

我々はクリスチャン生活として、この世から分離する、罪を分離するという事に関して真剣に取り組んで行かなければならない。 言いわけはきかない。

「信じている」それは一つの事。 しかし、結果として、行ないが分離して行ったり、神に喜ばれる歩みになって行き、それを持って何ぼだという事をよく覚えて置くべき。

我々が歩みにおいて罪を犯す事がある。しかし、それを悔い改めて行って、行ないが改まるように、その事を主の前に求めて行きたい。

第一ペテロ17節に、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

「地上にしばらくとどまっている間の時」

ここは、ギリシャ語では、外国の地にしばらく留まるというニュアンスがある。

ペテロを通して神様が言っている事は、我々はね一生を長く感じるが、神様の視点から見ると短い者である。しかも、深刻な事柄ではなく、外国の地に旅行しているというニュアンス。

言わんとしている事は、あまり、今の我々の人生とはいうものの、日常に起きている事柄で、

一喜一憂してはいけないという事、また、我々は旅行者のような者なので、いずれ帰る天の御国を基準にして歩むのが正しい。

なので、この辺りは、神の言葉が正しいと、取って行くべき。

この世の人は、頭にあるのはこの世の事しかない。

しかし、我々は、外国旅行(喩え)してたりすれば、そんなに気にしない。

この世に起きている事は、ほんの旅行中に起きている些細な事にすぎない。

「恐れかしこんで過ごしなさい。」

恐れかしこんで過ごすのが正しい。


第一ペテロ

1:18ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、

1:19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

1:20キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。

1:21あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

1:22あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。


ここに書いてあるように、「真理に従う」という事が書いてあるので、この事は覚えておく。

聖書を見ていると、頻繁に出て来る言葉がある。

その一つは、「真理」という言葉。

「真理」とは、本物とか、正解という意味がある。

英語で真理は、TRUTHという。

英語でトゥルーというと、これは試験の時に使う。正解だとトゥルー、間違いの時はホルス。

真理には、正しい答えという意味合いがある。

真理という言葉がよくよく聖書に出て来るという事は、裏返して言うならば、同じ聖書を読んでも、間違え、違った教え、ずれた教えが度々出て来るとか、そういう事が暗示されている。

他のみ言葉では、「滅びに至る門は広い、そこから入って行く者が多い」

同じ聖書を使っても、勘違いした解釈、歩み、教えに入る人が多いと理解できる。

聖書を読み、その中で聖書が正に言っている真理、大正解の教えをもし我々が見ることが出来るという事はこれは例外的な事。その真理に従って行くならば、「真理に従うことによって、たましいを清め、」とあるように我々の魂は清められていく。

いろんなあらゆる惑わし、偽りの霊とか、こういったものからも清められていく。

真理に従うのがおすすめ。

インチキな教えからも清められる。

万難を排してでも、キリストの真理に従って行くと、おかしなものに携わっていたとしてもそういった事から清められる。

真理に従う。最初の小さな一歩から。


1:23あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。


人間の栄えは、一時的なもの。

「人はみな草のよう」 草というのは寿命が短い。

この世の芸能界、またお笑い界でもそれと同じ。

しかし、主の御言葉は変わる事が無い。

対して、人間の言葉はその場限り。

聖書の言葉は、今の時代だからこそ通用する事は多い

アメリカにおいてはクリスチャンに対しての圧迫が多い。

路傍伝道している人が逮捕されたりしている。

強制収容所もたくさんできている。 大量の棺桶やギロチンまである。

そう言った事柄を全て説明するのも聖書。

獣の国はアメリカ。

新聞なんかよりも聖書の方が今の時代を説明している。

聖書は最も信頼できる書物。

「主のことばは、とこしえに変わることがない。」

聖書こそ、今の時代を反映している。

なので、人の言葉、栄えには、限度があるが、主の言葉は決して変わらない。

そして、今の時代に対して非常に大事になっている。

これから来る艱難時代に関して、あらゆる新聞、雑誌を読んでいても間違えるばかり。

しかし、主の言葉を読んでいく時に、これから起きて来る事がはっきり見えて来る。