ペテロの手紙1(815) 2015.2.15


1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。


前のあたりの節から続いている。世の終わりのことや再臨に関係する。


1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。


結果(ギリシャ語&KJV):終わり


「結果」ということばは、他でも使われているので、そこも見てみましょう。


参照 マタイの福音書24:13

24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。


最後結果(終わり)


艱難時代の終わりまで耐え忍ぶ、ということを言われている。ゆえに9節のことばは、世の終わり、艱難時代の終りまで「耐え忍ぶ」ことと関係する。


ポイント:「信仰の最後」ということに気を留める。→信仰生活は永遠に続けるわけではない。キリストの再臨の時に、顔と顔とを合わせるのでその時が「信仰の最後」。つまり見えなくても信じる必要が無い。


Ex:かつてエレミヤ牧師は六本木の会社の面接を受けるために、電話をしてから行った。その会社に着くまでは、六本木という場所柄、オフィスやそこで働いている社員の人々に対して派手なイメージを描いた。どんな環境なのか?と、心配した。しかし実際に行ってみると意外や意外、シンプルな感じでかなりホッとした。


そんな風に、現場に行ったら「ああ、なるほど~。こんな感じかぁ。」と実際に知るように、私たちの「信仰」も、見ないで永遠に信じるわけではない。でも、その時まで正しく「信仰」を持っていくことにポイントがある。その時まできちんとした「信仰」を保ってなんぼのもの、ということは正しく理解する。


得ている(KJV):得つつある→これから「得ていく」というニュアンス


ポイント:艱難時代には、見えていないキリストへの信仰が、揺るがされる時。


Ex:ダヴィンチコードを受け入れない人はカルト呼ばわりされる。福音派のクリスチャンもカルトと呼ばれる。そういった状況でも「信仰」を保っていくのか?ということがこれから試される。


そしてこういうことで脱落していくクリスチャンが続出すると思われる。その時に、見たことのないイエス・キリストを信じ続けられる?イエス・キリストのことばに留まるのか?ということが問われる。要は「信仰」が試されるのである。その中で、そして「艱難」を経て、さいごまで「信仰」を保つ人が「永遠のいのち」を得る。ゆえに今は信仰の訓練を正しく受ける時と言える。


Ex:学校に行くと宿題が出される。その時は九九の宿題で、たとえば“3×3”を解けないのに、“10×10”はさらに無理である。


それと同じように、信仰を訓練しない、というときに、あとでぐらついてしまう。


エレミヤ牧師の証:今まで色々と訓練されている。オフィスで働いていた時のことである。そんな中、「神の国と神の義」にずっと立っていた。定時に帰り、そのあとは祈っていた。昼休みも、教会の奉仕をしていた。主のことを優先していく、ということに常に立っていた。そうしていくうちに、危ない時があった。契約社員で働いていたので、いつでも契約を打ち切られてもおかしくはないのだが、本当に契約を切られそうになったことがあった。でも、主を信頼して祈った。上司におべっかを使う、という方法もあったかもしれない。しかし、守られるように、そして御心なら職場を辞めなくて済むように、ひたすら主に祈った。そうしたらふしぎなことが起きた。後任者に引継ぎが完了した段階で、色々とトラブルが発生した。その結果、「やはりあの人(エレミヤ牧師)にやってもらったほうが良いのでは?」ということになり、引き続き仕事を続けられることになった。


これは「信仰の訓練」と言える。その時に、見えないキリストを信じていくことが大事。8節で言われていることは尊い。見てはいないけれども、キリストに従い、愛し、信じていく。「艱難時代」はこのことが問われる。そして9節のことが言われている。信仰の最後に「魂の救い」を得る。ゆえに「信仰」がぐらついている人は危ない、と言える。


ポイント:艱難時代は、「信仰」が揺るがされる時。ゆえに「信仰」が「精錬」されていくのである。


Ex:鉱山→わずかな「金」が残る。


艱難時代、「本当は何なのか?」が問われる時→「金の信仰」なのか?そうでないのか?について問われる。


主の信仰に留まるか?という風に、「信仰」が訓練される。


ポイント:「信仰の訓練」に耐える。ゆえに今、「訓練」を軽んじない。今の色々な訓練は、艱難時代を見越したもの。今、まさに主から来る訓練を正しく受けていく人は、その日正しく留まる。


1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。


この救い=特別な救い


流れから言っていることは、「艱難時代」の終わり、すなわちキリストの再臨の時・・・艱難時代、「あわや」という時の奇跡的な救いのことを言われている。つまり、艱難時代後のキリストの「大逆転」のことを言っている。


8節の後半は、その日の「大逆転」のことについて言われている。そして10節も同じことを言っている。預言者も「大逆転」について調べた。しかし示されなかった。


1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。


キリストの苦難とそれに続く栄光=再臨


1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。


「前半」は、この啓示は、彼らにではなくて、この奉仕に携わっている私たちに啓示された、ということを言われている。つまり昔の預言者たち(イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど)は、キリストの現われの栄光や艱難時代にどうやったら救われるか?を調べたが、彼らには啓示されなかった。


しかし、パウロたちのように、この奉仕に携わっている人々に開かれた。そしてパウロを通して語られた。


場合によっては、御使いたちも、「世の終わりの大逆転」に関してよく分かっていない。つまり世の終わりのことは、封じられている。


ポイント:「啓示」は奉仕に携わっている人に開かれる。


パウロは、この奉仕に仕えていた。


Ex:レストランのメニューに関しては、お客さんはその日、お店がオープンしてからでないと分からない。しかしそこで働いている人たちは、その日どんなメニューか?を前もって知っている。


それと同じように、私たちがこの奉仕に携わるなら、「啓示」される。


Ex:レムナントキリスト教会では、黙示録の「太陽を着た女」についての「啓示」が開かれた。ヨセフ(創世記)のところから、ハッキリした「啓示」が来た。その時に「太陽を着た女」とは、「天的な教会」のことを言われている、ということを理解した。


パウロが命がけで奉仕をしていたから、「啓示」が来た。しかしそれに関して、「犠牲」を払おうとしない人には、「啓示」は来ない。やる気のある人に来る。そういう意味では、神のやっていることに不公平は無い。あらゆる「犠牲」を払って仕えていく人に「啓示」が来る、ということは正しく理解する。


こんな風にあらゆる事柄は、みことばに沿って進んでいく。


ポイント:熱心にこの奉仕に携わっている人に「啓示」が来る。


繰り返しますが・・・「終末の大逆転」は、本当に覆い隠されている。まさに、「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」と書かれている通りである。


1:13 ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。


結論として、こうなってくる。これも「再臨」に関連して言われている。あらゆることが出てくる。ペテロが手紙で、繰り返しこういうことを書いている。→イエス・キリストの現われに関してのことを。8節、7節、4節のように。


あらゆる形で、「艱難時代」があっても、何が何でも「資産」を受け継ぐことを奨励している。このことに聖書は「誇大表現」はしていない。ゆえに素直に受け取っていく。


ポイント:的外れなものを見ずに、受け継ぐべきものに目を向ける。


身を慎み(ギリシャ語&KJV):腰を守る


聖書で言われる「腰」の意味合いについて見てみましょう。


参照 ヘブル人への手紙7:10

7:10 というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父のの中にいたからです。


これがまさに言われていること。「腰」とは、「子種」のあるところ。そして「レビ」はアブラハムの子孫。そしてこれは麦、すなわちみことばの種を蒔くことに通じる。つまり「みことばの種」のこと。もっと言えば、「みことばの種を守る」ということ。そしてこれは大事な事柄だと言える。そこを引かされると、聖書のあらゆる大事な部分が抜けてしまうから。


Ex:「艱難前携挙説」を受け入れたら、終末のことは何も分からない。


1:14 従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、

1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。


「従順」となって、どのみことばも忠実に従っていく。


逆に「不従順」となって、「惑わし」に入ってはダメ!「栄光」を受けるのが難しくなってしまうから。


15節に書かれているように、神が「聖」なので、私たちも「聖なるもの」となる。


「聖なるもの」についてみて見ましょう。


ポイント:「汚れたもの」に触れないこと。


参照 レビ記10:3

10:3 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。


「聖なるもの」になるかどうか?が大事。


もし、「聖」でないなら、焼き尽くされてしまう。


こういう奉仕に携わり、きよくないなら、焼き尽くされてしまう。こういう奉仕に携わり、きよいなら、祝福。


「きよい」とは、「汚れたもの」に触れないこと。


参照 レビ記10:10

10:10 それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、


「汚れたもの」に触れないこと=きよい


参照 レビ記11:1‐3

11:1 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。

11:2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。

11:3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。


これはたとえとして書かれている。


ひずめが分かれ、そのひづめが完全に割れている:「歩み」が「分離」されている。「この世」からきちんと「分離」されている。


反芻する:「みことば」をよく読む


そういうクリスチャンと交わるのは大いに結構!だと言っている。しかし一方、「汚れたもの」もある。


参照 レビ記11:4

11:4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。


「らくだ」はNG。らくだは、「反芻する」とあるように、よくみことばを食べる。しかし「ひずめ」が分かれていない。ゆえに「この世」に着いている。Ex:この世の習慣に詳しい。


これはクリスチャンの交わりについてのことを言われている。私たちはこのあたりを実行していく。


ポイント:きよい人とは交わる。しかしそうでない人とは交わらない。


エレミヤ牧師の証:大分前に、7、8歳年上のクリスチャンの先輩に集会後、「酒場」に連れて行かれた。でも、今思えば、それは良くなかった。まじめにこのことは考えるべきだと思った。「ひずめ」が分かれていないのは、要注意であると思った。


さらに見てみましょう。


参照 レビ記11:9

11:9 水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。


ひれ:方向性がハッキリしている。


うろこ:「この世」と区分する。


参照 レビ記11:20

11:20 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。


「四つ足」で歩くのはダメ!


:「聖霊が鳩のように下った」ということばがあるように、霊的なことを表す。


なぜ、「四つ足」はダメなの?


参照 レビ記11:21

11:21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それで地上を跳びはねるものは、食べてもよい。


「四つ足」で歩き回る。しかし、「飛び跳ねるものは、食べても良い」とあるように、ピョンと、飛び回るのは良い。しかし「地」に着きっぱなしのクリスチャンはNG。

Ex:「復活は無い!」とか「進化論は正しい」と言ったりするクリスチャンに触れてはダメ。


参照 レビ記11:27

11:27 また、四つ足で歩き回るすべての生き物のうちで、足の裏のふくらみで歩くものはみな、あなたがたには、汚れたものである。その死体に触れる者はみな、夕方まで汚れる。


ポイント: 「地」に着いている。すなわち「この世」に着いているのは「汚れたもの」となる。つまり「この世」についた歩みは良くない。


また、「霊的な事柄」もあるので見てみましょう。


参照 レビ記12:1,2

12:1 それから、主はモーセに告げて仰せられた。

12:2 「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。


月のさわり:「血」(霊的なことのたとえ)が出る。「霊的」なことを通して、「変な霊」にやられている人には触れない。


再び、ペテロの手紙に戻ります。


ポイント:主が聖いので、私たちも「聖さ」が求められている。そのひとつとして、「交わり」にポイントがある。「交わり」が結構人に影響を与えてしまう。「この世的な人」とは、交わりを持たないようにする。主の言われている視点で、こういうことも見ていきたい。