1ペテロ218 2015.3.1


2:1ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、


「すべての悪意、ごまかし、いろいろな偽善や妬み、全ての悪口、」

このように書いてあるのは意味なく書いてあるのではない。

やはり、クリスチャンであっても、理想的なクリスチャンの歩みがあるだろうが、現実問題、

クリスチャンが、悪口を自分の口で出すようになってしまったり、悪意をもってしまったり、または、ごまかし(偽り・・・・御言葉に関して、携挙が艱難後の筈なのに、艱難前と言ったり、)がありえる。

形だけの偽善もある。また、ほかの人を妬む。 これらは良い事ではない。

これらを「捨てて行く」こと。 我々は、この御言葉を行なって行きたいと思う。

書かれている事は、無駄に書かれているではない。

自分の行いを糺さなければ、ろくでもない結果を招く。

素直になり、屁理屈を言わずに、行なっていく事。


2:2生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。


御言葉は「乳」

結論としていえる事は、きちんと「乳」を一生懸命飲む子は、大きくなる。

同じように我々クリスチャンも、新生した時に、御言葉の「乳」をきちんと飲んで受けていく人は、成長していく。

逆に、さぼって、赤子なのに全く乳を飲まないと大きくなれないように、全然御言葉の乳を飲まないクリスチャンは、成長しない。

ふらついたり、弱かったりする。また、大事な真理が見えなくなってしまう。

その場合、悔い改めて、御言葉の乳を飲む歩みをすれば、成長するようになる。

あらゆる事柄に関して、主によって成長していく。

単に、人から言われた教理ではなくて、自分の目で、正しい信仰に関して、理解し、成長していく。

最近レムナントでは、ヤコブ書、黙示録を通して「行ない」に関して、明らかに神様が言われているという事を理解した。

「行ないはどうでも良い」は間違い。

ポイントは、御言葉の乳を慕い求めたから。

乳を飲む習慣、聖書をきちんと読む習慣を主の憐れみによって行なって行く時に、そういう事が一つ一つ見えて来る。

申命記などに書かれているいけにえとは、奉仕の喩え。

勝手なところでいけにえを捧げてはいけない。

主が定めた一つの所でいけにえを捧げる事。

新約の時代で言うならば、それぞれのクリスチャンに関連して、主が定めた奉仕の場所とか、場合によっては教会、なすべき奉仕、ある人は預言、ある人は教師、ある人は使徒、ある人は伝道師の奉仕かも知れないが、神様が定めた奉仕や場所がちゃんとある。

それを行なって行くのが、主の明らかに命じている事。

御言葉の乳を慕い求める事で、それらの事がわかって行く。

なので、聖書に書いてある言葉を、礼拝の時にとりあえず、儀礼みたいに読むのではなく、「乳」を飲む習慣をきちんと身につけ、赤子のように、一生懸命乳を慕い求めて行くことによって成長していく。 屁理屈をつけて、その習慣をつけない人は、それっきりになってしまう。

信仰生活が何十年続こうが、わけの分からない事を言うようになる。

問題は、乳を飲む習慣がついていないという事。

「み言葉の乳を慕い求める」という事は、結構誰もが知っている事。

実践しているかは、別の事。

「み言葉の乳を慕い求める」という事は、赤ちゃんとして生まれる(霊的に)という事。

たとえ、老齢になったとしても、我々は新生しなければならない。

「キリストを信じた」というのは、赤ちゃんとして生まれたという事にすぎない。

しかし、その将来は、その子の歩み方次第。

我々が「救われた」というのは、赤ちゃんとしてスタートしたという事にすぎない。

本当に、命に至る狭い門に入るかは別の問題。

この点で、多くのクリスチャンは勘違いしている。

救われたらすでにゴールに入っていると思っている。

いきなりゴールに入る赤ちゃんはいない。

我々は、キリストを信じた時、スタートしたのであり、ゴールしたわけではない。

入るべき門、狭い道を目指していく。

そういう意味では、我々は、救われた時に、スタート地点に立ったけれども、みんながみんなゴールに着くとは限らない。これは聖書の基本。

ある人は、毒麦として育ち、火に投げ入れられてしまう人もいる。

この辺りは真理なので、よく見て行きたい。


2:3あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。


主は慈しみ深い方。


2:4主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。


この事は、イエス・キリストは、明確にはっきりしている事は、御自分の民の所に来たけれども、民は受け入れなかった。 人には捨てられた。

「人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

ここは、実際にイエス様の生涯を見れば分かる。


ヨハネ

1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。


信じる人の方が、ずっと少数派だった。

聖書の中に、脈々と流れるいくつかの法則のようなものがある。

その一つは、真理を語る時に、「人には受け入れられないが、神には受け入れられる」というパターン。 聖書の中ではこういうパターンが多い。旧約の預言者はみなそうだった。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そしてイエス様。迫害されなかった預言者はいない。

イザヤ、エレミヤ、エゼキエルは、神に選ばれたが、人からは捨てられてしまった。

この事は、我々も、真に主の働きを担って行く時に、こういう聖書の一つの法則のような事柄は、気に留めておかなければならない。

そうでないと、どこかで躓いてしまう。

神に選ばれ、人からも称賛されるような事は書いていない。 両方は無い。

二つ良いことは無い。一つを得れば、一つを失ってしまう。

両方取れればよいが、そうはいかない。

この辺りを捉えていないと、どこかで躓く。

本当に神の働きを担って行くなら、この様になる可能性があるという事を覚えておくべき。

レムナントにおいても、大事な事をニュースレターに書いて送っても、これを通して真理を見たという人もいるが、怒って、「こんな物おくってくるな」という牧師もいる。

その時に躓いてしまってはいけない。

本当に神からの働きがある時に、神に選ばれるという事と、人には捨てられるという事が、セットになってしまっている。 なので、びっくりしてはいけない。

逆に、「人に捨てられた」と思う時、実は、あるべきラインに入って来ている可能性がある。

なので、聖書をきちんと読むことが大切。その時に成長する。躓くことは無い。

イエス様のパターンに我々も従っている事にすぎないのであって、びっくりすることは無い。

逆に聖書を読まないと、動転し、パニックに陥る。そうであってはいけない。


1ペテロ

2:5あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。


我々は、ここに書いてあるように、聖書的に考えると、我々は、家の、石の一部だという事が

ある。石の一部というのは、日本みたいな木で造られた家だと、いまいちピンと来ないが、イスラエル、エルサレムでは、家はみんな石で出来ている。エルサレムストーンというものがある。エルサレムの石。石を築き上げ、それで家を作る。

我々も生ける石であって、我々は、家として建て上げられているという事を勧められているという事は、覚えておくべき。

ここを通してわかる事は、神は、明らかに教会について語っている。

教会を通して恵みを語っておられる。

往々にして、クリスチャン(よくできるクリスチャン)としてあることだが、「私は、あまりに純粋だ。教会へ行っても右を見ても左を見ても、俗的な人が多い。だから、私一人でクリスチャン生活を送って行く。」

しかしそれは、御言葉を読んでいく限り、あるべき健全な方法ではない。

霊の家として、築きあげられていく時に初めて我々は、あるべき奉仕ね地位に置かれ、あるべき一端を担って行く。

石一つでは、雨風をしのぐことは出来ない。

しかし、いくつかの石が重ね合って、家となるならば、屋根もあり、家の中に水は入って来ない。悪い人がやって来ても、家の戸を閉じてしまえば、入って来る事が出来ない。

家があれば、そこで食事をすることもできる。寝る事もできる。

家族がいるので、そこで病気になっても看病してもらえたり、代わりにご飯を作ってくれたりすることもあるかも知れない。

そういう意味では、我々クリスチャンというのは、家を建てるように、「霊の家に築き上げられなさい。」という、個人の事ばかりを強調するのではなく、神の家として築き上げられていく、そういう教会の一員として、主の働きを担って行くという、ある意味聖書の常識的な言葉に関しては正しく捉えて行く。

往々にして、能力ある人に限って、個人的な事ばかり言って、結局はろくでもないクリスチャン生活を送る人は多い。

だから、勘違いしてはいけない。

神様の方法なので、それはやはり尊重していった方が良い。

「霊の家に築き上げられる」そして我々も、その家の一部として、生ける石として、その一端を担って行くというのが神の方法であるという事を覚えておく。

「霊のいけにえをささげなさい。」とあるので、いけにえを捧げるのが大事。


2:6なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

2:7したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、


「彼に信頼する者は、決して失望させられることは無い」とあるので、信仰は、ある意味では、

全てが見えないけれども、頼って行くという面がある。

他のみ言葉にもあるように、見えてしまったら、信じる必要はない。

我々が、キリストに頼って歩みをしていく時に、全ては見えない。

しかし、それを信頼して歩む時に、その信頼が報われる。それが信仰。

かと言って、何でも信じれば良いというわけではない。

イエス・キリストに関しては、「彼に信頼する者は、決して失望させられることは無い」

この事は覚えておく。

これを、単に知るだけでなく、実際に実行する事。

主に頼って御言葉を優先していった時に、恥を見る事はない。

これが信仰。

「失望させられることは無い」と言っても、一度も頼った事の無い人は、それを見ることは無い。 信頼して、キリストに頼り、栄光を見る事。

それらが、我々が正しく、信仰生活を行なって行くなら、艱難時代になったとしても揺るがされることは無い。

エゼキエル書に「主の日に備えて、石垣を築かなかった」

今、御言葉を行なう事が石垣に通じるので、この事を実践していきたい。


2:8「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。


イエスキリストの来臨というのは、「つまずきの石、妨げの岩」

こういうポイントは理解しておかなければならない。

書かれている通り、御言葉は理解していかなければいけない。

キリストの来臨に関して、こういった面を、我々が正しく理解して行かなければ、これからキリストの再臨を迎えようとしているので、初降臨のイエス様はどういう方だったのかを理解しないと、同じ失敗を再度繰り返してしまう。

キリストの来臨に関して、はっきりと、神様が定めている。

また、聖書が語っている事は、イエス・キリストは、人によっては、「つまずきの石、妨げの岩」神様が意図してそうされている。 このポイントはよく理解すべき。

それは、テスト用紙みたいなもの。

「彼らがつまずくのは、みことばに従わないからです」

なので、イエス・キリストの来臨の目的というのは、ある人は、本当に御言葉に従っている人達なのか、そうでないのかを、神様がキリストの来臨を通して見分ける。

この事は、実際にキリストの初降臨の時にあった。

本当の意味で、御言葉に従っている、ペテロ、ヨハネ。

彼らの態度に出ている。「私に従って着なさい」 「はい」という具合。

彼らはイエス・キリストに躓かなかった。

ペテロは、はっきり大正解を言っている。

「あなたはわたしを誰だと思うか」 「あなたは生ける神の子、キリストです」

しかし、聖書の専門家であるパリサイ人、律法学者は大正解をしなかった。

逆に、「あいつはインチキだ、異端だ、こんな奴は生かしちゃおけない」と大間違いをした。彼らは躓きの石に躓いた。 何故躓くか、それは御言葉に従わないから。

偽善者とはそういう者。

彼らは、まさか聖書を教えている律法学者やパリサイ人が、御言葉を行なっていないとは誰も知らなかった。 つまり民衆はわからなかった。

しかし、神は見分けた。

同じ意味合いで、サルデスのみ言葉も恐ろしい。

「あなたは生きているとされているが実は死んでいる」

そして、御言葉を行なっていない。あの言葉も、この言葉も。

はっか、いのんどの十分の一を捧げているけれども、もっと大事な、憐れみも正義もおろそかにしている。

御言葉を行なっていないので、見事に彼らは選り分けられてしまった。

これは、かつての日に起きた事だが、再臨のキリストの時も、同じようなパターンで来るという事は、想像がつく。

再臨のキリストも明らかに「躓きの石、妨げの岩」

順調にクリスチャン生活をやって来て、「もう天国はま近だ」と思ってる時に、パタン!と転ぶ。、今のキリスト教界を見ていても、まさに同じ事が再現しつつあるような感じを受ける。

あらぬ形で、クリスチャンの、本音とか、本当の歩みとかを、神様がテストしつつあり、正しくみ言葉を行なっていない人は、みんなバタバタ躓いていくような時代であると理解する。

一つは、艱難前携挙説。 あのようなインチキな教理に引っかかるのは、やはり御言葉を行なっていないから。 躓いている。

また、ヤコブ書の「行ない」に関しての言葉も躓いて、「信仰さえあればいい」

また、福音の総合理解のように、はっきり書いてある事まで曲げて、良きサマリヤ人の話に「あなたも行って同じようにしなさい」とあるが、「それは行なわなくていい」など、やはり躓いている。

御言葉に従おうとしないから、わけの分からない教理に躓いている。

そういう時代が、まさに我々の時に再現されているという事を、恐れを持って見て行きたい。かつての初降臨の時に起きた事を他人事と思っては行けない。

聖書は、そのように出来ており、そのような構成になっており、そのように神様が意図して書かれているという事を理解する。

初降臨にあった事は、あらゆる事が、再臨の日に再現するというように理解できる。

イエス様の公生涯は3年半、艱難時代も3年半。

なのでかつての日に、律法学者、パリサイ人らは、躓きの石に躓いた。

イエス・キリストに躓いた。

これは昔あった事であり、かつてあった事だけれども、聖書は、世の終わりに、私たちに対して警告を発して書かれている。

再臨のキリストに関連して、この御言葉が躓きの石、妨げの岩となって、入るべき所に入れないクリスチャンがたくさん出て来るという事を、明らかに聖書は語っている。