1ペテロ2:8~15 2015.3.8


2:8「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。仮らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。


イエス・キリストは、我々の救いのために来られて、また、世の救い主として来られた。

しかし、もう一つの事も見る事が出来る。

ある人にとっては救いの岩。7節では、「より頼んでいるあなた方には尊い者である」

だが他の人にとってはそうではなく、逆にイエス・キリストが、災いになってしまう。

つまり、「つまずきの石、妨げの岩」になってしまう。

そういう面もあるという事を正しく捉えて行かなければならない。

イエス・キリストにつまずいてしまい、入るべき天の御国に入れず、得るべき恵みを受けられないという事がある。

我々にとって、イエスキリストが、救いの岩であり、尊い者であり、彼に信頼していく者は決して失望させられることは無い、というようになれば、これは大いなる祝福。

また、そうなるべき。

逆に、イエス・キリストがつまずきになってしまうという人も多くいる。

問題は、結局、すべき御言葉に対して不従順であるとか、従うべき事を従って行かないところにある。その場合、御言葉につまずく。御言葉はそのようになっている。

旧約聖書の時から、「つまずきの石、妨げの岩」という事が書いてあるので、ある意味では、イエス・キリストに関してのみ言葉は、神様が意図して「つまずきの石、妨げの岩」という面を用いている。

12使徒は殆どつまずかなかったが、唯一イスカリオテのユダがつまずいた。

福音書には、「彼は盗人であって、金入れを預かる身でありながら、その中身をごまかしていた。」とある。

使徒の立場に置かれているにも関わらず、不忠実だった。

彼は、自分の判断では、全く正しい判断で行動している。

「どっから見てもナザレのイエスはインチキだ。おれには分かった」などと、確信を持って行動している。

「今は、一番大事な事は、他の弟子たちは騙されているけれども、このイエスと言う男は、律法学者、パリサイ人に明け渡すべきだ」と。

彼は、御言葉に対してつまずいた。「イエスは救い主などではない」と、思ってしまった。

それは、彼が不忠実であったから。

また、律法学者、パリサイ人も、イエス・キリストにつまずいた。

彼らも、自分達の働きに対して不忠実であったから。

白く塗られた墓のようであり、人の目に見栄えさえよければいいと思っていた。

それに対し、ペテロは「あなたは生ける神の子、キリストです。」と、大正解をついた。

これは、我々に対しての警告。我々も不忠実な歩みをして行くなら、ユダの様につまづいて行く。

そして、今の時代は、あらゆる福音書、聖書の警告、終わりに対しての促しにも関わらず、見事につまづいている人が、たくさんキリスト教会に起きている事実を見るべき。

ある教団では、「イエス・キリストが神である」と認める牧師、教師が、少数派だと聞いた。

見事につまずいている。

他人事ではない。 神を恐れるべき。

見事に、多くの人は、御言葉につまずき、イエス・キリストにつまずいているが、不忠実な歩みをしていれば、その様になる。


2:9しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。


「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」 選ばれた種族、選ばれるというのは、非常に尊い。

同じように我々も、主に選ばれるというのは、尊い事。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

なので、我々が主によって選ばれたのなら、王である祭司としての働きに召されたのであれば、

神の業を述べ伝えるため。

我々は元々闇の中にいた。しかし、今度は、驚くべき光の中に入って来たということ。

我々のクリスチャン生活の中において、「光」という事に関して見て行きたいと思う。

主ご自身も、「私は世の光として来た」と言われた。

光がどの様に尊いか。 光の無い所にいるとよくわかる。

光があれば、つまずかず、何にもぶつかることは無い。

クリスチャン生活においても、ポイントや問題というのは、我々が、確かに一生懸命歩んで行くべきであり、熱心にやって行くべきかもしれないが、ただ走れば良いという事ではなくて、光が無いと、見えず、真っ暗な闇の中を走っていても、つまずいて倒れてしまう。

なので、光があるのと無いのとでは大違い。

光があれば、当たり前の様に、大事な事が見えて来る。

クリスチャン生活の大きな問題というのは、光が無い場合。

一生懸命やっていても的外れになってしまったり、違うものを掴んでしまう。

「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方」

「驚くべき光」とある。これは、納得する表現。この事が尊い。

レムナントは、主の憐れみによって、まさにこの言葉の通り、「驚くべき光」の中に、今も入っている。

その中で大事な事を見て行く。 一つは、終末の時代、明らかにクリスチャンや教会に対しての裁きの時であるという事。また、サルデス(プロテスタント)に対しての警告も見るようになった。「私はあなたの行ないを知っている」しかし、その行いは、生きているとされているが実は死んでいる。死は、罪に通じ、また、永遠の命の反対。

永遠の命を得られない事に続いている。

なのでサルデス(プロテスタント)の歩みをして行くならば、つまり、普通のプロテスタントの歩みをして行くなら、永遠の命が明らかに危ないという事を見て来た。

永遠の命を保っているのは数人だけで、他の大多数のクリスチャンは、いのちの書から名を消されるという、恐るべきことが書いてある事を、「驚くべき光」の中で見ることが出来た。

「驚くべき光」は、単に知識だけでなく、歩みになって来た。

歩みを糺すという事は、自分の歩みの一環になって来る。

これは、光を見て来たから。

我々は、単にクリスチャン生活を歩んでいれば良い、という事ではなく、神によって、光が与えられるかによって全く違って来る。

光があれば、暗いところでもきちんと歩んでいく事が出来る。

同じように我々は、非常に尊い事。

レムナントにおいては、「驚くべき光」の中に入っているという事。

当たり前の様に、これから起きて来る事柄とか、今のクリスチャンにとって、どういう事が大事なポイントかという事が見えているというところが、驚くべき恵みであるという事を、聖書的な理解として見て行きたい。

「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に」と書いてあるのは、意味のある言葉。

我々の受けているレベルの光とか、真理の光というものは、驚くべきレベル。

聖書的な意味合いというものを見て行きたい。 この事が尊い。

神の前に尊いのは、大事な光、必要な光を見るという事が、主の憐れみによって、我々の所に来ている。

これらを述べ伝える技を、「ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

なのでこういった光とか、真理とか、恵みというのは伝えて行ってこそである。


2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。


我々は以前は神の民ではなかったが、今は神の民。

以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者。

「あわれみ」という言葉。

この言葉は、どこで使われているか。


マタイ

18:33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか』


憐れみという言葉は、ここに、全く同じ言葉が使われている。

我々は、かつてはあわれみを受けなかったのに、今はあわれみを受けるという時に、このような意味合いの恵みに入ったという事。

ここはどういう所かというと、一万タラントの借金を追っていたしもべが、返せなかったので、

主人が、かわいそうに思って、1円残らず、免除してやった。

返すことのできない額の借金は、全ての人にかかわっている。膨大な借金だが、全ての人は、

神の前に罪を犯しており、その額を計算するなら一万タラント、つまり1兆円を超すかの金額。

我々は、どんな借金でも、「一円残らず返せ」と言う。

我々が、一万タラントのしもべのように、我々も本来なら、獄に入って、返済するべきだが、主人が、哀れに思って赦してくれた。これが、我々の受けた贖い。こういう事が基本。

勿論、イエス様が十字架にかかって我々の罪を贖って下さったが、基本は、神が、哀れに思って赦してくれたという事。 借金とか、お金を払うとか書いてあるが、贖いという言葉は、買い取るという事。

なので、これは我々の贖いとか、罪の値を払うとか、そういう事に関しての事柄。

そういう意味で、我々は憐れみを受けた時に、本来なら、我々も、全ての罪の値を払うべきであるが、神の憐れみによって、一万タラント、あらゆる借金を、神の憐れみによって免除してもらった。具体的にはイエス様の贖いによって、免除された。 

これが憐れみだと覚えておきたい。

かつて憐れみを受けていなかった時、我々も本当なら、一万タラントのしもべの様に、一円残らず返すべきだった。

だが、一万タラントのしもべというのは、自分は借金を赦してもらったのに、自分は他人の100デナリの借金を赦さないで容赦なく取り立てた。その時に、免除された一万タラントが戻ってきてしまう。これは覚えておくべき。

聖書にこのように書かれている限り、軽視してはいけない。

必ずこれに引っかかる人が出て来る。たくさん出て来る。

主の祈りの中に、「われらに罪を犯した者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」

人を赦さない者は、間違いなく一万タラントが返って来る。

聖書の言葉は無駄に書いていない。「主の祈り」は無駄に長いわけではない。

同じクリスチャン同士でも、全く人の罪をどこまでも執念深く赦さないのは危ない。

我々は気をつけていきたい。


1ペテロ

2:11愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。


我々は、この世においては、旅人であり寄留者であると、聖書に度々書かれているのでその事は覚えておきたい。

旅人であり寄留者の特長は、旅行者なので、そこに家を建てたりしないという事。

長くはいないという事。 旅行者なので、そこの生活にあまり気を使いすぎて、入れるべき所に入れないのでは本末転倒。

多くのクリスチャンは、クリスチャンでありながら、あまりにもこの世の事に気を使い時間を費やして、入るべき所を間違えてしまったり、失敗してしまったりする。

他のみ言葉にもあるように、「世を用いる者は用いすぎないようにせよ」と書いてあるので、

旅人、寄留者であるという事が、大事なポイント。

11節の後半で、「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」とある。

「たましい」という言葉。 ギリシャ語では、「プシュケー」

ギリシャ語での意味合いは、「息」

創世記において、息とは、神が人に「息」を吹き込んで、人は生きる者となった。

この「息」と、全く同じ言葉が使われている。これが、「たましい」という言葉で使われている。

神の吹き込んだ「息」とは、聖霊だと理解する。

我々は、聖霊、神の息によって、生きた者となるということは、永遠の命に通じる。

しかし、その命に関して、命を消すような働きとは、書いてあるように、「たましいに戦いをいどむ肉の欲」

たましい、霊に対して、肉の欲が敵になっていくというのが、聖書には所々で語られている。

このパターンを覚えておくべき。

我々はたましいを守るべきであり、それをもって永遠の命に至るべきだが、守るべきポイント、敵のポイント、攻撃のポイントという事に関しても理解して行かなければならない。

ここに「肉の欲」が出て来る。


マルコ

4:18もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、

4:19世のこころづかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。


ここにあるいろいろな欲望というのが、肉の欲と同じ言葉。

御言葉は聞くが、たましいに戦いをいどむ肉の欲、富の惑わし、世の心遣い、こういったもので、結局は実を結ばず、たましいの命が失われて行く。そういう意味合いがある。

聖書は、我々の歩みに関連して、肉の欲が我々に戦いを挑んでくる事を語っているので、覚えておく。

肉の欲望とはどういうものか。

エバが騙された時、善悪を知る知識の実に関しては、見るに良く、食べるに良く、賢くなるにふさわしいと言ったように、すごくエバの欲が刺激されたということも覚えておく。

それでエバは道をそれてしまった。結局たましいの命を失って、永遠の命に至らなかった。

エバは、失敗したクリスチャンの型。 その人の肉の欲が刺激されているという事を見るべき。

目の欲は「見るに良く」  食欲「食べるに良く」  知識の欲「賢くなるにふさわしい」

肉の欲は、われわれのたましいを妨害する。

例えば祈ろうとしている時、目がテレビの方に引っ張られてしまう、など。

「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」とある。

我々は、書かれている事は守った方が良い。

右も左も肉の欲で囲んでおいて、それでたましいを成長させるのは難しい。

我々は、祈りや御言葉でたましいの成長を求めて行くならば、肉の欲を遠ざけなければならない。そうでないと、勝負にならない。

肉の欲は遠ざける事がポイント。


1ペテロ

2:12異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。


我々がクリスチャンだからと言って、受け入れてくれる人もいるかも知れないが、逆に、「宗教に関わっている人はいやだ。」とか、冷たい目で見られるかも知れないが、「異邦人の中でりっぱにふるまいなさい」

卑屈になったりせず、証になるようなふるまいを出来るように求めて行きたいと思う。

そうすると、何かで悪人呼ばわりしていても、神が、その異邦人や未信者に対して訪れる時が来る。


2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、

2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。

2:15というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。


クリスチャンはこれを守るべき。

「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」とあるので、交通法規も守るべき。「それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、」

今の日本で言えば、日本のトップである首相であろうとも、その下の市役所の人であろうとも、警官であろうとも、主のゆえに、こういった制度に基本的には従って行く。

しかし、極端なパターン。「キリストへの信仰をやめろ」などは別。

「キリストへの信仰をやめて反キリストを拝め」と法律で言われても、聞いてはいけない。

主の御言葉を行なっていきたい。